初盆と四十九日
亡くなった日が6月25日であると、四十九日は8月12日です。つまり、翌日からお盆です(8月盆の場合)。
ということは、ほぼ連続して四十九日・初盆の法要を行うことになります。
しかし・・・
なんの問題もなくその通りに行われるか?というと、なかなか難しい問題の発生する場合が多いようです。難しい問題とは・・・
- 親戚縁者友人が短いスパンで連続して休みを取れない
- お盆前から坊さんが忙しく都合がつかない
- 施主が、連続して用意するのが大変である
こんなところですね。
亡くなった日が6月20日であっても21日であっても難しい点では同じです。
でも、亡くなった日が6月26日以降であれば、四十九日が8月13日以降となりお盆に重なります。この場合、初盆は翌年になります。
そこでこの記事では、現実問題として、どうやって解決して、どのように実行するのがいいのか、を解説します。
その前にまずは、四十九日までの意味、初盆の意味を大まかに捉えます。
「そんなことはどうでもよくて、実際の儀式のやりかたがわかればいい」という考え方はちょっと違うのかなって思います。
意味があるからこそ、それをもとにした判断も成立するわけでして、そこを無視するなら、もうなんでも好き勝手にやればいいという事になってしまいます。
例えば、四十九日と初盆が近いからと言って両方を一緒にやってはいけません。「いけない」からにはいけない理由があって、理由の元にはそれだけの意味があるのです。
ということで、四十九日と初盆の意味から入ります。
四十九日とは
亡くなった日を1日目として数え(一部2日目と数える地方もある)、初七日から七日ごとに法要を営み、これを7週間にわたって続けます。
この期間の意味するところは、その間に故人が裁きを受けて来世の行先が決まり、それに要する期間が7週間つまり49日間なのです。
もっとも故人全員が7週間かかるのではありません。はっきりした善人は即天井へ、疑いようのない極悪人は即地獄へ行きます。
そして、残った人たちが次の7日目に行き先が決まり、また残った人たちがその次の7日目に行き先が決まり・・・となって、49日目に全ての人の行き先が決まります。
この49日間を中陰といい、中陰とは死後、来世に行くまでの期間をさします。そしてラストの49日目を、中陰が満ちたという意味で満中陰と呼ばれています。
さて、七日ごとに裁きを受け来世が決まるわけですが、行き先は全部で六つの世界にわかれています。それは・・・
- 地獄道
- 餓鬼道
- 修羅道
- 畜生道
- 人間道
- 天上道
これらをまとめて六道と言います。
六道に振り分けられた人のその後は、いつかまた死に、そして再び振り分けられた世界で苦しんで迷って、また死んで・・・というふうに、まるで車輪が回るが如く延々と繰り返されるのです。
これを六道輪廻といい、解脱できたときに生まれ変われる世界が極楽浄土です。
四十九日までの法要の意味
上記の通り、仏教では七日ごとに法要を営みます。各法要には名称がありまして・・・
- 初七日(しょなぬか)
- 二七日(ふたなぬか)
- 三七日(みなぬか)
- 四七日(よなぬか)
- 五七日(いつなぬか)
- 六七日(むなぬか)
- 七七日(なななぬか)
となります。
では、なぜこんなに何回も七日ごとに法要をあげるのでしょうか?
答えの半分は既述なのですが・・・
亡くなった人は少しでもマシな世界へ行きたいけれど、嘘はつけません。生前の行いは全て閻魔帳に記載されているからです。
それでも、残された遺族はなんとか少しでもましな世界へ行けるように、法事をするのです。法事という善行をし、その功徳を故人に分け与えることによって叶えられるように願います。
これを追善供養といいます。
しかし現実の世界では、お葬式と初七日を一緒に済ませて、七日ごとの法要はせず、四十九日の法要を行うのが一般的となっています。ご存知の通りです。
早めの法要はOK!
諸事情で(各七日法要も含め)四十九日の法要がその日にできないときは早めても良い事になっています。
逆に、慶事とは違い、後ずらしはよくないといわれています。
後ずらしが良くない理由は、故人の行く世界が決まる裁きが終わってしまってからでは遅い、意味がないということで、追悼供養の説明と合わせて読むと意味がはっきりすると思います。
盆と仏教と神道
四十九日を終え、初めて迎える盆が初盆です。初盆には故人が家に帰ってくる日だと言われています。
仏教においては、上記の通り、四十九日を過ぎれば生まれ変わり(どの世界に生まれ変わるかはわからないが)この世に戻ってくることはありません。あれっ? 戻ってこないのに戻ってくる?
何か不思議な気もするけれど、そもそも仏教の「盆」てなんなのか?
仏教が日本に伝えられたときには既に中国では「盆」はあったという記録があり、日本でも600年代にはその形跡があります。
ただし、仏教で言うところのお盆とは「盂蘭盆経」というお経の講釈をする法事のことで、「先祖が帰ってくる・故人が初めて帰ってくる」という発想の「は」もありません。
対し、神道では、祖先崇拝と自然崇拝を柱とし、人間は祖先神から命を受け、また、やがて祖先神の世界に帰り神様として子孫を守るのです。
豊受大神宮の祠官、中西直方は「死道百首」の中で「日の本に生まれ出にし益人(人々)は神より出でて神に入るなり」と詠んでいます。
神道では仏教における輪廻の概念がなく、祖先から現在の自分、そして子孫へと連続的に直線的に命が繋がっていくから、祖先は神となって守ってくれることができるとも言えます。
以上からもわかるように、故人が帰ってくるという発想は、仏教にはなくて神道に沿った考え方であります。
そうなのです。それなのに僧侶に依頼して法要を営むという大矛盾。私の友人の寺の住職も、今の盆と仏教はなんの関係もないと明言しています。
神仏習合
話がややこしくなってきましたね。矛盾を矛盾とせずに、文化として受け継いできている理由はなんでしょうか。
日本に古くからある神道と外来の仏教とが影響しあってできている独特の文化風習が神仏融合です。
昔から神道と仏教は政治的・権力的には相当紆余曲折があったのですが、上に説明しましたお盆がそうであるように、想像以上に神仏習合の実態は身近です。
ただ、当然、仏教側は自分達に都合のいい解釈をするし、神道側は日本古来よりの神様が最上にあると言うし。それぞれの話を聞いていると可笑しいくらいです。
しかし、そういう事にかかわらず、神仏習合の文化は避け難いものとして私たちの生活に根付いてます。
だからこそ、故人は帰ってこないとする仏教の僧侶に御経をあげてもらい、その後ろで手を合わせている遺族親族は初めて帰ってくる故人をおもっているのです。
また、ほとんどの方が気にもしていませんが、寺の中に鳥居が立ってたり、神社敷地内にお堂があったりという例もありますね。
以上のようなことからもわかりますが、理屈で考えると矛盾でも、日常生活に溶け込んだ文化となるとなんの違和感もなくなるのですね。
四十九日と初盆
さて、前置きとしての説明が長くなってしまいましたが、ここで改めて「日が接近する四十九日と初盆」について考えてみます。
人は、亡くなってから49日の間に六道の何れかの世界、或いは極楽浄土で生まれ変わるので、49日は大きな区切りとなります。
四十九日間を忌中といい、この間は穢れが強いので、お祝い事や神社への参拝は控えるのが良いとされています。四十九日が過ぎると忌明けとなります。
忌中とは別に喪中という言葉もありますね。喪中とは故人を偲ぶ期間をいい、やはり、お祝い事などには出席しないのが良いとされてきました。
そう言えば年賀ハガキも出しませんしね。喪中の期間は一周忌まで(一年間)とされています。
いずれにしても忌中や喪中といった概念は仏教ではなく元々神道的な考え方です。
ですから、それが定まらないうちに初盆の法要は(仏教からすれば故人が神となって帰ってくる事自体が思想に無いが)流石に無理があります。
そういう理由で、四十九日が盆にかかったりそれ以降になるときは、初盆は翌年になるのです。
また、四十九日と初盆の日が接近している場合も、日の間隔が如何に近くても合体することはありえないのです。もうお分かりだと思います。
しかし現実問題として、両方の日が接近していて同年に行う場合はやっぱり悩むみます。
何を悩むのか・・・
- 初盆と四十九日が接近していると坊さんの手配がつかない(とにかく盆の時期は坊さんが忙しい)
- 接近した日に二回法要を開催すると、ほとんどの場合みな勤め人なのでお参りの都合がつきにくい
- 接近した日に二回法要を開催すると諸準備が大変である
初盆と四十九日の意味するところを思い起こせば、複雑な気持ちにもなりますが、やはり悩まずにはおれません。
なぜなら私たちは現実を生きているから、生活しているからです。
さて、どうしたものか? 無理をしてでも二回法要を行う、それが出来るならばいいですが、そうでない場合は二通りの考え方があります。
- 四十九日と初盆の法要を一緒に行う
- 初盆を来年にずらす
そもそも一緒には行えないのです。それに、今年初めて家に帰ってくる故人なのに、その初盆を来年するって意味がありません。
両案とも全くイレギュラーなので答えは出ません。しかし・・・
こういったイレギュラーなケースでどうすべきか、を何度も確認していると不思議な事がわかってきます。
僧侶にせよ神主にせよ、必ず答えを出して教えてくれるのです。それなりの理屈をつけて。
答えなどありはしないと思っていても「こうすればよい」「こう考えれば良い」と必ず教えてくれます。
ですから、まずは坊さんに相談するのが一番です。こちらの事情をお話しして、それにそってどういうふうにできるのか?
檀家ならお寺さんに、僧侶派遣会社を通じてなら来ていただく坊さんに相談すればいいです。
必ず答えを出してくれるので、納得できる案を固めます。
次に、参列予定者である親戚縁者にも了解を取り納得をしてもらう必要があります。下手をすると、故人に対する考え方で揉める可能性もないとは言えません。
ここでコンセンサスを得ることは非常に大事であると私は考えます。
ネットを読んでいると、周りに振り回されずにとか、うるさい親戚は無視して等という意見も散見されますが、相当危険な判断です。
今後一切付き合わないというなら別ですが。第一、そんな角が立つような判断をしても故人が喜ばないでしょう。
上手に根回しをして、平穏に供養を行うのがベストです。
三十五日の法要で切り上げ、初盆もその年におこなうという方法も実際にあります。
死後七日ごとに裁く王は変わるのですが、三十五日は閻魔大王の裁きがあり非常に重要な日です。ほとんどの故人はここで行き先が決まるとも言われています。
四十九日と初盆を同時に行う場合のお布施金額
理屈はともかく・・・
坊さんや親族の方と相談をした結果、四十九日と初盆の法要を同時に行うと決めたとします。
その場合のお布施の金額についてです。
他の記事でも述べてますが、お布施について基本的なおさらいをしますと・・・
- お布施はサービスの対価ではない
- 宗旨宗派や地域によって考え方・因習が違う
この二つを理解しておくことが大切です。お布施は坊さんの為す宗教的行為に対する料金ではありません。
托鉢という修行がありますが、これは街中を歩き、もしお布施をしたい人がいたら差し出し、修行僧は受け取りますがお礼はしません。ただただ無心で受け取る修行です。
お布施をする人は、自分の所有する財産を離したくない・失くしたくないという心を断ち切る修行です。
つまり、僧侶・布施者いずれとも修行であるというのが托鉢でありお布施です。
ですから、お布施の金額をいくらお寺に聞いても(まともなお寺なら)答えは返ってこないのです。
一方、お布施も含めた宗教行事やそれに関する因習は、宗旨宗派と地域性に大きく左右されます。
うちのお寺と隣村のお寺では違う、ということも実際にあります。
ですから、全国一律の決まりは成立のしようがないのです。
以上から、どう考えて解決に持っていけば良いのか道筋が見えてきます。
- 非常に地方色が濃く親族が集まっている地域・・・(菩提寺に法要をお願いするのですが)まずは、よく知っている方にお伺いし、それにそってプランを立て、親族に図ってみんなの同意の上で金額その他を決める
- 横の繋がりのない都会では・・・葬儀会社か僧侶派遣会社か近くの寺(拘るなら郷の菩提寺と同宗派)にお願いすることになるが、依頼先が葬儀会社か僧侶派遣会社なら直接聞けばいいし、寺なら自分の考えで支払う
因みに、横の繋がりがない都会に住んでいる私ならどうするか?
僧侶派遣会社は料金体系ができているのでその通りに支払うという一択ですが、近くのお寺に直接お願いする場合は(私の場合葬儀会社を通すという選択肢がない)5万円の一封です。
もともと全国共通の理解がないし、私の主張する5万円の根拠も空気みたいなものです。
万が一にもないとは思いますが、5万円で不服をいうような僧侶にあたったら、その僧侶と属性を総本山に伝え訴えるべきです。
売り上げやサービスの対価なら当然課税対象になります。
しかし、お布施や玉串料は宗教活動における喜捨金、つまり喜んで捨てるお金で、日本では課税対象にはなりません。
それどころか、寺で販売しているお守りや絵馬などの売上金、果ては墓地の永代貸出料に到るまで全部非課税です。
流石にこれはおかしい。仏教の哲学と税法をごちゃ混ぜにしてどうする? でも放置しているのが実情です。
まとめ
四十九日と初盆の日が接近している場合どうすれば良いかを、両日の持っている意味を知り、かつ、現実に即した考え方を記しました。
初盆の時期は一番多い8月を想定して述べてますが、それ以外(7月や9月)であっても考え方は基本的に同じです。
答えのない問題に答えを見出し、それを実行していくのですから、どうしても割り切れない点はありますし、軋轢も上手に回避していく努力は必要だと思います。
まとめると・・・
- 四十九日と初盆の日が接近している場合の法要とおうちのご事情を鑑みどうすべきかををお寺や坊さんに相談する
- 同日に行う場合は親戚の参列予定の親戚縁者にも了解を得る
それから、同時に行う場合のお供えについてですが、独自性の強い地域では親戚縁者か菩提寺に聞きます。
都会では、僧侶派遣会社に聞くか、お寺に直接お願いしている場合はお寺に教えてもらいます。
こういう記事を作成していてなんですが、不明な点をネットで検索するにはあまり向いていないテーマだと思います。
最後に、全く私的な考え方を述べます。
日本人が伝統的に持っている死生観と仏教のそれはまるっきり違います。違うってわかりきっているのに、仏教を立てるから余計に話がややこしくなってくるのです。
なので、人が亡くなってからの行事は葬式(神道では神葬祭という)をはじめそれ以降の行事も、全て神式で行えば随分すっきりとするような気がします。
なぜなら、遠い過去から日本人が持っている死生観と一致しているからです。
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