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五節句と七夕
七夕は五節句の一つで古来から行われている行事です。七夕には独特のロマンチックさを感じさせるものがありますね。
その理由は「夜空の星にまつわる物語」から来ていると思います。幾つかの要素を含んではいますが、単純に天の川を挟む二星の悲恋というストーリーは子供の心にもよく残るような気がします。
さて、七夕を含む五節句については他の記事でも紹介していますが、簡単におさらいをしますと
五節句とは
- 人日 1月7日
- 上巳 3月3日
- 端午 5月5日
- 七夕 7月7日
- 重陽 9月9日
の5つですね。江戸時代に公式行事となり今もなお伝統文化として受け継がれてきています。
しかし元々これらの行事は全て旧暦に基づいているので、新暦への変更は文化継承の観点からすればマイナスの影響が大きかったと思います。
「重陽」の影が薄れているのもその辺に原因の一つがあるのではないでしょうか?
七夕の由来
ものすごく細かい考察も含め諸説あります。が大体は
- 日本の「棚機」(たなばた)という神事
- 中国から伝来した織姫彦星の伝説
- 中国から奈良時代に伝わった「乞巧奠」(きこうでん)
が合わさったものだという考え方が最もポピュラーだと思います。ではその一つ一つについて見てみます。
棚機(たなばた)
日本では「神様をお迎えして供える神聖な着物」を織る神事があり、特別に選ばれた棚機女(たなばたつめ)と呼ばれる女性が機織りをしました。
この穢れのない棚機女は俗世から離れた清らかな水辺に建てられた機屋(はたや)に篭って布を完成させますが、この時に使われたのが「棚機(たなばた)」です。
奇しくも、織姫の伝説と似た部分がありますね。また七夕を「たなばた」と当て字読みするようになったのは「棚機(たなばた)」が関係しているとも言われてます。
しかし、そう読まれるようになった時期の特定はなかなか難しいようです。平安時代とも室町時代とも言われています。
織姫と彦星の伝説
昔の中国のお話です。天の川を挟んで西側には天帝という神様の娘で、素晴らしい布を折る機織り上手な織女が住んでいました。
一方、天の川の東側には非常に牛の面倒を良く見る働き者の牽牛が住んでいました。
天帝は働いてばかりの織女を心配して牽牛との結婚を勧めましたところ、二人はすっかり意気投合しめでたく結ばれたのでした。
ところが結婚してからというもの、二人は一緒にいることが楽しくて、つい仕事のことは忘れて暮らしていたのです。
その結果新しい布はできず織機はホコリまみれになり、牛はみんなやせ細って死んで行ったそうです。
天帝の諌めの言葉にも、二人は適当な返事をするばかりで以前のように仕事をしようとはしませんでした。
遂に天帝は「これではいけない」と二人を元に戻してしまいました。そして以前のように仕事に励むなら年に一度だけ7月7日に会えるようにしようと言いました。
以来、二人はその日を楽しみにまたそれぞれ一生懸命仕事をするようになったとのことです。
ところが7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増して渡ることができません。悲しんでいる二人のところに憐憫の情を持ったかささぎが現れ、翼を広げて橋となり織女を渡したそうです。
さて、7月7日は旧暦の話です。新暦では織女と牽牛の星としての位置が低くて見にくいです。しかも梅雨の時期なので雨になる日も多く余計に見えないのです。
旧暦の7月7日こそ2つの星は天上に上がりデネブとの大三角形も見応えがあるというものです。
ところで、旧暦の7月7日には必ず半月(上弦前後の月)が出て天の川を東から西へと移って行きます。だから、これに乗って渡って二人が会うという話もあります。
旧暦7月7日は新暦では
- 2016年 8月 9日
- 2017年 8月28日
- 2018年 8月17日
- 2019年 8月 7日
- 2020年 8月25日
となります。
もう一度申し上げますが「7月7日は雨が多い」は新暦にとらわれた誤解です。あくまでも旧暦のお話です。
学生時代に北アルプスに登って、夜、山小屋から出て満天の星を見たときに初めて宇宙の奥行きを感じました。
さて、織姫星の正式名称はベガで琴座にあります。一方彦星はアルタイルといい鷲座にあります。そしてもう一つ白鳥座にあるデネブと合わせ、3つの星で描く三角形を「夏の大三角形」と呼びます。
もしまだ見たことがなければ一度晴れた夏の夜空(8月)を見上げてください。天の川に絡んでいて非常に見つけやすいです。
3つの星座とそれぞれにある星が作る夏の大三角形。眺めていると心は太古の人と繋がるかもしれません。
日本の昔話には西洋のような星にまつわる話はあまり出てきませんね。でも古来天文学や星座に関しては中国から伝来しておりそれなりの名残があります。
例えば、飛鳥時代には陰陽寮という星観測の国の機関があって記録が残っていますし、古墳の壁や天井には星座が描かれていたりします。
また同じく平安時代に中国から伝来した宿曜道という星にちなんだ占いもあります。
乞巧奠
中国では唐の時代に行事としての七夕が盛んになりました。
一方、乞巧奠は唐時代の女官が手芸や裁縫の上達を願う行事として行ったのが最初だと言われています。
七夕は二人が年に一度会う願いが「叶う」という伝説と、裁縫の上達が「叶う」という行事がくっついて一つになったとも言われています。
尤も、もっと古い南北朝時代の「荊楚歳時記」にも乞巧奠の様子が記されています。
乞巧奠の行事では、庭先の祭壇に五色の糸を通した針とともに数々のお供え物をしてお祈りしました。後に、裁縫だけではなく書道や習い事の上達をもお願いするようになりました。
日本には奈良時代に伝わり孝謙天皇が行ったのが最初だそうです。やがて宮中に広まり、裁縫以外に「織姫彦星」の物語にちなんで良縁を願う意味も含まれてきたとも言われています。
正倉院には今なお当時の行事に使われたと推測される針と糸が残されているそうです。
やがて平安時代から室町時代になると「織女祭り」という宮中行事へと発展して行きました。
江戸時代まで下ると儀式としての様式は姿を消しましたが、文化が庶民にまで広がり、お供えをして書道をはじめとする習い事全般をお願いする行事として定着しました。
日本の七夕
以上見てきましたように、中国から伝来した七夕と乞巧奠に日本古来の棚機女の神事がくっつき、更に仏教や祖霊信仰に基づくお盆行事なども絡んで非常に複雑に変化してきました。
何せ最初に伝来してから1,800年近くも経っているわけですからね。それは姿形も変化するでしょうし、日本国内でも地方によって微妙に異なってくるでしょう。
竹と笹の文化
竹は神代の昔から今日に至るまで神事に欠かせません。
神楽の始まりは笹の葉を持って天鈿女命(あめのうずめのみこと)が舞ったことだとされ、巫女が笹の葉を持って神楽を演じたのが能楽の始まりと言われています。
竹や竹箭を御神体とする神社もあります。
また湯立神事は立てた竹の内側でお湯を炊き、その湯玉を笹の葉で参拝者に振りかけて無病息災を祈願するものでニュースなどでも見ますね。
このように、笹は神様が最も乗移りやすいとされ、竹は神様が地上に降りる時の記しで、竹の中の空洞には力が宿っていると言われています。
違いの説明は非常にややこしいです。一般認識的な違い、学術上の違い、利用上の違いは呼び名に反映されて本当にややこしいです。
学術的には竹・笹ともイネ科タケ亜科に属しています。一般認識的には大きいものは竹、小さいものは笹。素材としての利用上は竹・笹に関係なく、利用する部分が茎であれば竹、葉っぱであれば笹という具合です。
見分け方ですが、成長したら完全に皮がはがれてしまうのが竹で、いつまでも残っているのが笹です。
七夕飾り
七夕飾りは笹の葉(枝)と飾り物と短冊でできていますね。笹の葉に飾るのは江戸時代に始まったとされ、日本独特のものです。
短冊については別項に記しました。
飾り物も結局は中国伝来の七夕と乞巧奠そして日本の神事に関連しています。飾り物はたくさんの種類があって、その一つ一つに意味をもたせています。
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- 紙布(紙衣) 裁縫上達祈願。一番上に吊るす。
- 吹流し 織姫の糸を表現。機織り上達祈願。
- 投網・あみ飾り 魚を取る網を表現。豊漁祈願
- ひし形つなぎ 天の川を表現
- 提灯・野菜 神様・ご先祖様へのお供え
- 千代鶴 家内安全長寿祈願
- 巾着 財布を表現。金銭に困らぬように。商売繁盛祈願。
- 屑籠 整理整頓、倹約の心ができるようにとの願い。
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以上の他にも、星の形や織姫と彦星の人形など沢山あります。
飾り物を作ろう!
飾り物を折り紙で作るには、このサイトがぴったりなので御紹介します。
(折り紙サイト→http://www.origami-club.com/tanabata/)
七夕と短冊と願い事
七夕には短冊にお願い事を書いて笹に結ぶのは全国的ですよね。お子さんがおられれば、短冊に願い事を書いて色紙で飾り物を作って七夕の笹を完成させる親子作業をされた方も多いでしょう。
さて、願い事については上記の通り乞巧奠に端を発しているのですね。
裁縫の上達を願うのが元々の趣旨で、それが習字の上達、織姫星彦星が会うという話から良縁祈願などにも広がりました。
一方平安時代には、神様から頂いた夜露をイモの葉に溜めて、これで墨をすって字を書くと上達すると言われ、七枚の梶の葉に和歌を書いてお供えしたそうです。
このような経緯から、短冊は文字や和歌を書いて上達を願ったことに端を発しているようです。
今では、元々の趣旨にはあまり拘らなくなってきているのでしょうか。とは言うものの「早く〜と別れられますように」などという短冊を見ると、文化が全く伝わっていない事にちょっとショックです。
短冊の色
短冊の五色は乞巧奠の五色の糸に由来しており、乞巧奠は陰陽五行説に基づいた行事です。
陰陽五行説において、青・赤・黄・白・黒の5つの色は宇宙を組成している5つの要素の象徴なのです。
また、宇宙の全てのものは色だけではなく方角や時間や惑星、十干や十二支など様々な事象に当てはめられています。
より具体的には
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- 青は(木・仁・東・春)であり
- 赤は(火・礼・南・夏)であり
- 黄は(土・信・中央・土用)であり
- 白は(金・義・西・秋)であり
- 黒は(水・智・北・冬)を表します
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なので実際に書くときは、お願いしたいことに関連する色の短冊に書くのがいいでしょう。また、五色のうち青が緑、黒が紫だったりすることも多いです。
笹と七夕飾りの処分
さて、用意した短冊は6日に笹の葉に飾って、7日の夜(若しくは8日)に外します。以前は川や海に流していたのですが、それは当然ゴミになるので今の社会には不適合ということでほとんど見なくなりました。
近くに焚き上げをしてくれる神社があればお願いし、なければ、笹飾りそのものは全部可燃性ごみなので、笹は小さく切り分けて飾りと一緒にゴミとして出せます。
ゴミ処分は心情的にはちょっと複雑ですが、個人で燃やすのも都会では迷惑でしょうし、その辺は生活に合った方法で文化を継承していくしかないと思います。
また最も大切なことは、短冊に書いた願い事を忘れずに、そこに近づく努力であると、昔、神主さんに聞きました。
日本三大七夕祭り
日本三大七夕まつりが行われている都市を全部言えるでしょうか? まず間違いなく誰でも知っているのは仙台七夕まつりですね。
あとの二つは、平塚市(神奈川県)の湘南ひらつか七夕まつりと安城市(愛知県)の安城七夕まつりです。但し三番目については諸説があるようです。
ここでは、あなたにも一度は行って欲しい仙台七夕まつりの紹介をします。
仙台七夕祭り
概要
仙台の七夕まつりは藩主が伊達正宗の時代にさかのぼる伝統ある行事です。さすがに江戸時代まで下ると、和歌や文集が残っておりそこから当時の様子やいつ何をしていたか等がわかります。
今とはちょっと違った様子も伺えます。例えば、線香を焚いたところがあったり、豊作祈願のために神様の馬として藁で七夕馬を作ったりしていたようです。
そしてもともと旧暦の行事である七夕はお盆を迎える準備をする期間でもあったのですね。
こうした仙台七夕も明治時代の新暦になってからは一度は廃れていきます。尤も仙台だけでなく日本全体で廃れていったようです。
(但し「廃れる」とは街全体の話で、各家庭レベルでは脈々と受け継がれていたと言う記述もあります)
そして町おこし事業として一旦は昭和2年から復活しますが、太平洋戦争へと突入してゆく過程でまたもや七夕の灯りは消えて行きました。
しかし終戦の翌年には早くも復活を遂げ、その後順調に発展していきました。
現在はもう町おこしの枠を遥かに超えて巨大な「お祭り」という観光イベントとして成熟の境地にあると言っていいでしょう。
しかし、その一方で伝統として守るもの、例えば七つ飾りや七つ道具と呼ばれる独自の飾り物は昔ながらの手法で作り飾られているのです。
また、私の両親も東北出身なのでよくわかるのですが、こうした神様を迎え入れるお祭りは、農作物に大ダメージを与える冷害と深く関わっています。
特にこの時期、神様にお願いして聞いていただくことが殊の外大事なのです。
スケジュール
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- 開催日(毎年同じ) 8月6日〜8月8日
- 開催場所 仙台中心部及び周辺商店街(有名な豪華七夕飾りが見れるのは駅前の中央通りから一番通りアーケード)
- 問い合わせ 仙台七夕まつり協賛会(事務局:仙台商工会議所)
電話:022-265-8185
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仙台七夕まつり公式HP
→http://www.sendaitanabata.com/
2014仙台七夕まつり(公式)
→https://www.youtube.com/watch?v=kGU-YvdmaVI
最後に
何せ七夕は中国から伝来して1,800年ほども経っています。こんなにも長い期間に亘って一つの文化が受け継がれていて感動します。
そして七夕は現代に至るまでに日本各地に広まり、継承されるものと独自に付加されてゆくものが合体して、それぞれの地において少しづつ違った文化として継承されていくのですね。
中国語を私に教えてくれた中国人学生がよく言っていました「中国文化の継承者は中国ではなく日本です」。
日本は伝説を守り、さらに新たなる伝説にしてゆくことができる国なのだと思います。
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