お腹を痛めて痛めて、やっとこの世に生まれ出てくれた我が子。夫とともに、この子のために頑張ろうと決意する瞬間です。
当然、無限の愛を注ぎたい我が子の命名には力が入ります。この世の誰よりもいい名前にしたいと思うでしょう。
その有り余る愛情の一方で、やがて少しずつ世に出る我が子が、自分の名で苦しんだり、彼(彼女)が接する社会がその名に狼狽したりする可能性もあります。
この記事ではそのあたりを踏まえ、考えれば考えるほど葛藤せざるを得ない「子の名前」について深く考えていきます。
最早、少し古くなった感もしないではありませんが、ここで扱う「子の名前」の総称を敢えて「キラキラネーム」と呼ぶことにしますね。
目 次
キラキラネーム:親の願いと現実のギャップ
親たちは子供の名前を考えそして選ぶ際に、大きな大きな希望と夢を込めます。その根底には、私の語彙では到底表現できない特大の愛が。
特にキラキラネームを選ぶ親たちは、子供の名前に独特の意味を込めたり、全く読めない漢字をあてたりすることを重視します。
でも、親の好意的な意図に反して、これらの名前は実際の社会でさまざまな問題を引き起こす可能性があります。というか現実に起こしています。
特に、名前の読み方が一般的ではない場合や、名前が漢字として認識できない場合、これらの名前は子供自身だけでなく、周囲の人々にとっても混乱を招きます。
名前は個人のアイデンティティを形成する重要な要素であり、他人とのコミュニケーションの基礎でもあります。
それゆえ、名前の選択は子供の生活に直接的な影響を及ぼすだけでなく、子供が社会との関係を築く方法にも影響を及ぼします。
これらの観点から見ると、親が子供の名前を選ぶ際には、その名前が子供自身だけでなく、社会全体にどのような影響を与えるかを慎重に考慮することが求められます。
そのようなことから、特にキラキラネームを選ぶ際には、その名前が子供と社会の間のコミュニケーションにどのように影響するかを考えることが特別に重要となります。(←後に述べますがこれ本当にポイントです)
キラキラネームの歴史は案外古い
キラキラネームって客観的な定義がないんですね。つまり、何がキラキラなのかの基準は全くの主観です。
とはいえ、社会的に一定の共有される認識はあります。
ところで、キラキラネームって案外古い歴史を持っているんですよ。大正時代から存在すると認識されています。(珍しい名前という認識なら鎌倉時代ころからある)
例えば「醜男」とか「麿女鬼久壽老八重千代子」とか。勿論今の命名感・キラキラ感とはかなり違いますが。
因みに、「醜男」ってなんでこんな酷い名前をつけたのかって疑問ですが、敢えてこういう名前にして、それが魔除けになると信じられていたようなのです。
教育現場でのキラキラネーム:先生とクラスメイトへの影響
学校は、子供たちが社会性を学び、共同体の一員としての役割を理解する場です。
しかし、キラキラネームが持つ独特の読みや意味は、学校において様々な問題を引き起こすことがあります。
先生にとって、生徒たちの名前を正確に読むことは、当然ながら重要な役割の一つです。何故なら、それは先生が生徒との関係を築き、それぞれの生徒を個別に認識し、尊重するための手段だからです。
しかし、キラキラネームはその読みが一般的ではないため、と言うか全く読めないケースが多いため、先生も覚えてしまうまではえらい大変です。
これは、先生の負担感を増加させるかもしれないし、生徒との関係構築にも影響を与える可能性があります。
また、キラキラネームはクラスメイトにとっても問題を引き起こす可能性があります。
名前が一般的な読み方でない場合、他の子供たちはその名前を覚えるのが難しく、また正確に呼ばれることが難しいことも往々にしてあります。
それだけじゃなく、名前の字面や読みから連想ゲーム的にあだ名が付けられ、それが本人を苦しめる事例は私が知っているだけでも1例や2例ではありません。
これは、名前の所有者がクラスの一員として認識されるのを妨げ、孤立を引き起こす大きな要因になる可能性があります。
これらの問題は、学校でのコミュニケーションと学習の質にまで影響を与え、本人にとっての全体的な教育環境をかなり悪化させる大きな要素となりえます。
そのため、親がキラキラネームを選ぶ際には、子がその名前が原因で学校でどれほど苦しむかを考慮することが超重要となります。
- 東大合格者名の名前は全員読める
医療現場でのキラキラネーム:混乱の原因とその対策
医療現場においては、患者の名前が正確に認識されることが極めて重要です。
それは、治療方針を決定し、医療行為を実施する上で、患者の身元確認が不可欠だからです。しかし、キラキラネームは医療現場においても、予期しない混乱を引き起こす可能性があります。
キラキラネームの一部は、一見してその読み方が分からない、または一般的な読みと異なるものがあるため、医療スタッフが患者の名前を正しく読むことを難しくします。
これは、患者とのコミュニケーションを阻害し、誤解を招く可能性もありますし、さらに、名前の読みが分からない場合、緊急時には重大な問題を引き起こす可能性もあります。
例えば、意識不明の患者が病院に搬送された場合、読めない名前のために混乱が生じ、処置が遅れる可能性もないとはいえないし、患者の生命を直接危険にさらす可能性さえあります。
これらの問題に対する一つの解決策は、読み仮名の登録を必須とすることですね。そうすれば医療スタッフが患者の名前を正しく読むことが可能となり、誤解や混乱を防ぐことができます。
ただですね、それはあくまで技術的な解決策であり、根本的本質的な問題解決には至りません。
名前は個人のアイデンティティの一部であり、社会の共有物であるという視点を持って、名前の選び方自体を根本的に変える必要があるのではないでしょうか。
別の言い方をすれば、名前の持つ基本にして重大な役割の一つは「識別情報」であることです。いざというときに個人を識別できない名前ってなんなのでしょうか?
社会的シーンでのキラキラネーム:読み間違いと失笑のリスク
名前は個々のアイデンティティを表現するだけでなく、他人との交流の初めの一歩でもあります。
したがって、名前が社会的なシーンでどのように受け取られるかは重要です。キラキラネームはその独自性から、特定のシーンで困難を引き起こす可能性があります。
可能性があるも何も、社会的なトラブルを生まれながらにして背負ってしまったと言っても過言ではありません。
公の場での式典や会議では、当然、正式な名前が呼ばれて然るべきです。
しかし、キラキラネームが用いられると、読み間違いが生じやすくなります。それどころか、マイクの前でいざ読もうとしたら読み方が分からなくてパニックになる事態も容易に想像できます。
読み方が一般的ではない、或いは誰も読めない名前は、呼び名としての役割を果たせないことになります。
これは端的に言えば、個人の社会的な存在を否定するような結果を招くことになるのです。
それだけではなく、極めて個性的なキラキラネームは、時には失笑の対象になる可能性があります。
名前が他人にとって奇妙に映ると、その人が真剣に取り組んでいる場面でも、その名前に過度に多くの注目がいってしまって、本来注目すべき事項が軽視されることにも繋がりかねません。
このように、キラキラネームは名付け親にとっては自慢の個性的な表現となるのでしょうが、社会的なシーンで他人との接触を考慮すると問題点も明らかになります。
名前選びには、個人の自由表現だけでなく、その名前が社会全体でどのように機能するかを考慮することが極めて重要であると言えます。
名づけの意識と実態:親の見えない盲点
名づけとは親から子への最初の愛で満たされた贈り物であり、子の人生を形成する大切な一部となります。
しかし、キラキラネームを選択する親の中には、その名前が社会全体に及ぼす影響で子がどれほど苦しむか、を見落としている場合があります。
「人に読めなくても気になりません」「こう読ませりゃいいでしょ」といった意識は、親が子の名前に対する個人的な愛着や独自性を重視する傾向を示しています。少なくとも悪意はないのでしょうね。
しかし、この視点は名前が社会の共有物であるという事実を見落としています。
名前は個人だけでなく、他人とのコミュニケーションツールとしても機能します。というか、ほとんどそのために名前があると言っても過言ではありません。
また、親が子に与える名前は、親自身の感覚や姿勢を反映します。仮に、他人や社会に背を向けたような名づけをすると、その感覚や姿勢が子に伝わる可能性があります。
これは、親が子に伝えたいメッセージが、子の人生に悪影響を及ぼす可能性を示しています。
一方で、「社会」という言葉を聞いても知人の顔しか浮かばず、知らない人がひしめく広い社会のイメージが浮かばない親も少なくありません。
その結果、名づけの際に広い社会の視点が欠けてしまうことがあります。この視点の欠如は、キラキラネームが生まれる一因とも言えます。
以上のことから、親が名づけの過程で考慮すべきは、個人の自由表現だけでなく、その名前が社会全体でどのように機能するかという点であることが明らかになります。
名前と社会:共有物としての名前の重要性
名前は個々の人間を特定するための重要な識別情報であり、一人ひとりが社会の中で独自の存在として認識されるための基本的なツールです。
それとまた、名前は個人の所有物だけでなく、社会の共有物でもあるという認識が必要です。
個人がどのような名前を持つのも自由ですが、その名前が他人によって理解され、正確に読まれることができるかどうかは、その人が社会の一部として機能するために極めて重要な要素となります。
例えば、名前は公共の場所や公式の書類に記され、他人によって読まれ、発音されます。
看板やポスターと同じで、作る時は個人の作品でも、公共の場に貼り出されたら社会の共有物であるということを忘れてはなりません。
これが読めない、あるいは一般的な読み方から大きく逸脱した名前が増えると、社会全体のコミュニケーションが混乱し、さまざまな問題が発生する可能性があります。というか多く発生しています。
文字というのは、読み方のルールがあってはじめて社会で機能します。そして、そのルールに基づいて、私たちは他人の名前を正確に読むことができます。
漢字の読み方は個人が勝手に決めるものではなく、それを無視して名前をつけると、その名前は本人にしか読めなくなり、識別情報としての役割を果たせなくなります。
以上のことから、名前とは、個人のアイデンティティを示すだけでなく、他人とのコミュニケーションを円滑にするための社会的なツールであると言えます。
名前が社会の共有物であるという認識を持つことは、社会全体が円滑に機能するために不可欠です。
キラキラネームの解決策:社会全体との調和を目指して
キラキラネーム問題の解決策を探るには、まず社会全体との調和を目指す視点が必要です。名づけの自由と社会的な機能性をバランス良く保つ方法を模索することが求められます。
一つの提案として、政府が戸籍法を見直し、戸籍に読み仮名の登録を求めるという動きがあります。
これにより、一般的な読み方を基準として、漢字の読み方を一定の範囲内で制限することが考えられています。これにより、キラキラネームが生み出す混乱をある程度抑えることが期待されます。
しかし、この制度導入は、親の名づけに対する自由をどの程度まで制限するべきか、という新たな議論を引き起こす可能性もあるかもしれません。
もう一つの視点として、社会的な教育の役割があります。
名前は社会的な共有物であるという認識を広めることで、親が子どもの名前を考えるときに、その名前が社会全体にどのような影響を及ぼすかを考慮しやすく出来るでしょう。
具体的には、学校教育や公共のキャンペーンなどを通じて、名づけの意識改革を進めることが考えられます。
最終的に、キラキラネーム問題の解決は、法的な制度改革だけでなく、社会全体の意識改革によってもたらされるべきだと考えます。
親の名づけに対する自由と社会の機能性を両立することが理想です。
名づけは個々の家庭の問題だけでなく、社会全体が関わる重要なテーマであることを認識し、その解決に向けて一緒に考え、行動することが必要です。
諸悪の根源
ここではやや理想論を展開してますが、そもそも根源的な欠陥は民法にあると私は考えます。
現行の民法では命名行為に規定が全くなく、また、戸籍には氏名の読み仮名欄がありません。だから、ありえないような読み仮名がまかり通ってしまうのです。
いい加減に改正すべきです(使用する漢字の組み合わせの問題もあるのですが・・)。
結論:名前選びの新たな視点
本記事を通じて明らかにしたかったのは、名前は単に個人のアイデンティティを表現するだけでなく、社会全体と関わり合う重要な要素であるということです。
この認識を持つことが、名前選びに新たな視点をもたらします。
キラキラネームは、親の愛情や願いが込められたものであり、その自由を否定はしません。しかし、それが教育現場や医療現場で混乱を引き起こし、また本人が社会に出て、例えば、厳粛な場で名前を呼ばれた時に読み間違いや失笑を引き起こし、それがどれほど本人を苦しめるかはよくよく理解すべきです。
したがって、名前選びは、親の願いだけでなく、子どもが将来社会でどのように受け入れられるかを真剣に真剣に考慮に入れるべきです。
また、社会全体として、名前は共有物であり、それが機能するためには一定の共通認識が必要であるという視点を持つことが求められます。
そして最終的には、キラキラネーム問題の解決は、社会全体の意識改革とともに、法的な制度改革も必要です。
それぞれの親が名づけに対する自由と社会の機能性を両立させる視点を持つことで、より良い社会を築くことができるのではないでしょうか。
名前選びの新たな視点は、親の願いを形にするだけでなく、その名前が社会とどのように関わり、そして社会全体にどのような影響を及ぼすかを考えることです。
名づけは単なる個人の問題ではなく、社会全体が関わる重要なテーマであるという認識を持つことが、名前選びの新たな視点であり最も重要なポイントです。
さっきも述べましたが、我ながら、ちょっと理想論的なまとめかなという気がしないでもありません。それは、今の社会のあり方や認識と、私の主張に隔たりがありすぎるからかもしれません。