【姬路城】焼けず崩れず姿を保ち続けられた真なる理由



藤原
日本のお城って当時のまま現存することが実は不可能に近いのです。ここで言う「お城」とは、主に天守閣を指します。

で、この記事では、何故元の姿を保ち続けられないのか、その原因について考えるとともに、姬路城がその例外となっている理由についてお話していきます。

なお、姬路城に関する他の記事もありますので、よろしければ参考にしてください。

当時のまま現存できない6つの理由

火に弱い

基本木造なので火に弱いです。それに天守閣は背が高いし避雷針もなかったしで落雷を受ければ火災になる可能性が高かったんですね。

戦乱の時代

加えて、実は、お城は戦乱の激しい時代に多く建てられたのです。だから、戦いに敗れると廃城になることも多かったんです。

「一国一城令」と「武家諸法度」

また、江戸時代には「一国一城令」と「武家諸法度」によって、大名の居城意外は取り壊し、新しく築造も禁止。これによって数千もあったお城が一挙に170程度にまで激減してます。

「廃城令」

次に、明治になったらなったで今度は「廃城令」。お城なんて完全に無用の長物で、残すも壊すも多額の費用が必要となるのですよ。だから仮に存続OKになったとしても廃墟化する可能性が大きかったのです。

現に、払い下げになった姬路城は当時のお金で米10俵分にもならなかったとか。今や国宝で世界文化遺産でもある姬路城がですよ!

しかも、払い受けた人(神戸清一郎)も結局は権利を放棄してるし。

大東亜戦争

更に極めつけは大東亜戦争。軍需工場を標的にするとはいえ、ほぼ民間人も含む無差別空襲をやりまくったアメリカ軍。

当然多くのお城も犠牲になっており、戦前の国宝級のお城が7つも焼失しています。

地震大国

そういえばもう一つ、日本は世界有数の地震国。大きな地震で過去多くのお城が倒壊しています。

 

それでも姬路城は生き残った!

さてそこで姬路城。

あのね、上述の全ての災難を華麗にスルーしてきたのですよ。これを奇跡と言わなければどこで「奇跡」を使うのか?

後付ながら理由を考えてみると・・・

1400年代の嘉吉の乱応仁の乱あたりが、奪い合いの戦いの中で火災になったりする危険性があった気もするのですが無事でした。

その後、姫路一帯の領主が織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といった天下人に上手に仕えたのも大きいでしょう。

更には、徳川時代には重臣とはいえ外様の池田氏に代わって譜代の本多氏が入封したのが姬路城の安定に大きく寄与したのは間違いのないところ。姬路城が今に残る大きな大きな要因であると思います。

そして江戸末期、政府軍に対してさっさと明け渡したのが、これまた戦禍に塗れなかった大きな要因。ここで玉砕覚悟で粘ったりしてたら、きっともう姿は残っていなかったでしょう。

明治時代の「廃城令」が発布された時は、流石にちょっとした危機だったかも。

しかし、中村重遠大佐による存続の訴えと以降の市民の保存に向けての熱意が大きく功を奏しています。

そして最後の難関、大東亜戦争におけるアメリカ軍の大空襲。

このとき姬路城は空襲から逃れられたのではありません。西の丸や三の丸は被害を受けてます。

実は大天守にも焼夷弾は降っていたのです。ところが奇跡的にこれが不発弾で、どうも屋根を飛ばし窓から着弾したようです。

そして、鈴木頼恭将校らがこれを担いで運び出し下の広地で不発弾処理しています。めちゃくちゃ勇気のある所業だと思いますし奇跡です。

姬路城は空爆目標から外されていたという説もあるようですが、終戦後来日した当時のB29の機長曰く「回避せよという命令はなく、天守が残ったのは全くの偶然」。

こうして「事実は小説より奇なり」を地でゆくような運命をたどった姬路城は市民の熱意と努力のおかげで美しい姿を今も見せてくれています。

 

 

最後に

偶然が重なることはさほど珍しくもありません。

しかし、姬路城ほど重なり続ければ、それはもう「偶然」とは言えないかもしれません。偶然でなければ何なのか?

そのあまりに豪華絢爛にして面向不背なるさまを見続けた歴史の神様は「必然」として後世に残してくれたのでしょう。



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