【源氏物語】光源氏と関係深い女性を通してのあらすじと京都の関連ミュージアム3つを紹介

紫式部
藤原
「源氏物語」という古典文学作品が、いかにして読者を引き込み、感動を与え続けるのかを、関係した女性たちにスポットライトを当てて明らかにします。
藤原
光源氏の愛と悲しみ、欲望と後悔、そして成長と教訓が、彼と関わる女性たちを通じてどのように表現されているのかを探求することで、源氏物語の複雑で多層的な魅力に迫ります。
藤原
最後に、宇治と京都にある3つのミュージアムを紹介します。その他、関連情報も盛り沢山です。特に、京都の地理に詳しくない方は必見です。

目 次

源氏物語のアウトライン

「源氏物語」は、平安時代初中期に紫式部(970年〜1014年)によって書かれた物語で、主人公である光源氏の生涯を通して、貴族社会の様々な側面が描かれています。

物語は光源氏の誕生から始まり、彼の成長、多くの女性との恋愛関係、政治的な野心と挫折、そして晩年に至るまでを追います。

「様々な側面」を下にまとめました。

  1. 【宮廷文化と礼儀作法】:物語は、当時の宮廷文化や貴族間の複雑な礼儀作法、服装の規則、季節に応じた行事や祭りなどを細かく描写してしており、平安時代の貴族社会の繊細な美意識や価値観が伝わる。
  2. 【恋愛と人間関係】:物語の中心は、主人公光源氏の多くの恋愛関係だが、それを通じて人間関係の複雑さや愛のさまざまな形が探求される。また、妻や愛人、子どもたちとの関係を通じて、家族内の絆や葛藤が描かれている。
  3. 【政治と権力闘争】:光源氏の政治的野心や権力をめぐる争いも物語の重要な部分を占めている。貴族社会の権力構造や政治的策略が、登場人物たちの運命に大きな影響を与えている。
  4. 【美学と芸術】:平安時代の貴族社会では、文学、音楽、絵画などの芸術が大きく花開いた。『源氏物語』では、和歌や雅楽・管絃、大和絵などが物語に彩りを添えるとともに、登場人物たちの教養や感性を示す重要な要素となっている。

 

光源氏の生い立ちと両親

父・桐壺帝と母・桐壺更衣

光源氏の父は桐壺帝という天皇で、母は桐壺更衣(きりつぼのこうい)という側室でした。

大臣級の職につけたであろう桐壺更衣の父は早死し、その後の強力な後ろ盾(これが如何に大切かは後に明らかになります)がなかったために、桐壺更衣の身分は低かったのです。

后妃の序列

后妃の序列は、皇后=>中宮>女御>更衣 となっており、その下に宮人や侍従などもいます。

光源氏は、母親の身分の低さゆえ天皇になれなかった設定です。

実際の歴史では、更衣の子でも天皇になった実例はあります。摂政や関白など、有力な貴族の後ろ盾があると、やはり強かったみたいですね。

皇后と中宮の関係は実は少しややこしいのでここでは説明を省く

桐壺更衣は非常に美しく、天皇の寵愛を一身に受けていましたが、これが後宮女性陣との摩擦の原因になりました。

その軋轢や孤立が彼女を苦しめ、早死の原因の一つになったようです。

弘徽殿の女御と藤壺の宮

両人とも、序列では桐壺更衣の上になります。

弘徽殿女御(こきでんのにょうご)は桐壺帝の正室。彼女の第一子(東宮)は後の朱雀帝で光源氏の三才年上の異母兄弟です。

一方、藤壺の宮は、桐壺更衣の死後、彼女に瓜二つの美貌が帝の目に止まり妃として迎え入れられます。

やはり桐壺帝からの深い愛情を受けますが、美しく高貴な彼女は、源氏物語において理想的な女性像を象徴しています。

そして、あろうことか、のちに光源氏は藤壺の宮と密通してしまいます。

桐壺更衣と藤壺の宮の差

双方ともに美しく、双方ともに天皇の深い寵愛を受けていた。なのに、どうして桐壺更衣だけが後宮のバッシングを一身に受けたのか?という疑問が浮かびます。

後宮のボスは弘徽殿女御です。この人は嫉妬の化身で、桐壺更衣をいじめ抜いて死に至らしめた張本人です。

しかし、同じことを藤壺の宮にはやっていません。できなかったのです。なぜなら、藤壺の宮の父は前の帝だったから。

如何に地位や身分で物事が変わるか、ということですね。

嫉妬の権化である弘徽殿女御も、見方によっては哀れで可哀想です。なぜなら、悪魔に変身してしまった大本の原因は、桐壺帝が彼女に優しくなかったからです。

女心を壊され、正室のプライドも潰され、そりゃ正気の沙汰ではない行動もとりたくなるわ・・と同情する人もいるかもしれません。

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源氏物語のもう一つの魅力「和歌」

54帖ある源氏物語には800近い和歌が収録されています。

これらは物語の一部であり、全部紫式部がつくったものです。

当時は、何につけ、和歌を交換するのが当たり前の時代でした。

だから、物語の中にも当然和歌がでてきます。

物語自体は、現代語訳で読むしかないでしょう。

でも、和歌は、たとえ意味がわからなくても、解説を見つつ、そのまま読むのがよいのではないでしょうか。

源氏物語ミュージアム

 

光源氏と関係した女性の登場期間

沢山の女性が登場しますが、「いつからいつまで誰がいた」というのが理解できなくなる可能性があります。

そこで、グラフ化してみました。

Y軸は光源氏の年齢です。53歳で亡くなりますたが、それ以降も生存していた女性がいるので、便宜上70歳までとっています。

各女性の登場と退場は、物語の中ではっきりしている場合とそうでない場合があります。

なので、特に、晩年光源氏の死去以降も生活していた女性の退場についてはいい加減です。はっきりしているのは、光源氏よりも長生きしたことです。

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それでは、いよいよ源氏物語に登場する女性たちを紹介します。

 

藤壺

風俗博物館

桐壺に瓜二つのお姫様

桐壺更衣の死を憐れみ悲しみ、すっかり元気のなくなってしまった桐壺帝。

相当意気消沈していたようで、何人かの女性を入内(じゅだい)させてはみたものの、桐壺更衣を忘れさせるに程遠い実情でした。

そんな時、先帝にもお仕えしていた女房達が「先帝の第四皇女がとてつもなく美しく、桐壺更衣そっくりだ」という情報を帝に伝えたのです。

それまで元気がなかった帝は、非常に心が動かされ、「是非入内を!」と熱心に申し入れをしました。

ところが、母后が「桐壺更衣をいじめ抜いた弘徽殿女御のうわさはここまで伝わってます」と承諾をしませんでした。

しかし、母后がなくなってからも熱心に入内の申し出を続けた結果、姫君の周りの人たちの勧めが功を奏し、遂に入内となったのです。姫君14歳のときでした。

その後与えられた部屋が藤壺なので、そのまま呼び名になったのは当時の習わしです。

さて、藤壺の絶大なる美貌は正に桐壺更衣に瓜二つ。

帝の生気もやっと戻り、その後、桐壺を忘れることはできなくても、徐々に心は藤壺へ移っていきました。

そして、生涯、藤壺を寵愛されたのでした。

弘徽殿女御の無念

それにしても浮かばれないのは弘徽殿女御。

全ての寵愛を藤壺に持っていかれ、しかし、桐壷と同様のいじめもできない。

なぜなら、藤壺の父は先の帝、母は帝の妻の中でも最高位の后で、子としてはこれ以上ない高い身分なのです。

対して、弘徽殿女御は右大臣家の姫ですからね。こればかりは流石にどうにもなりません。

いじめ殺すくらいの根性の持ち主ですから、毎日毎日、フラストレーション溜まりまくりだったことは想像に難くありません。

義理の母藤壺

藤壺が14歳で入内した時、光源氏は9歳でした。

3歳で母をなくしており、桐壺の顔をはっきりとは記憶に留めてなかった光源氏ですが、それでも藤壺に母の懐かしさを感じていたようです。

光源氏をとても可愛がる桐壺帝は、しばしば一緒に後宮へと出向かれ、それによって、光源氏も藤壺と会う機会が増えます。

しかも帝が「あなたは光源氏の母親にとても似ている。この子があなたを母親として慕っても何もおかしくない。どうかかわいがってほしい」みたいなことを言うんですね。

藤壺への心境の変化

そうこうしているうちに光源氏は元服の時を迎えます。そして、恋愛対象でもなんでもない葵の上と政略結婚。

元服してもできるだけ側においておきたい帝のお陰で、一緒に藤壺の元へ通うことが出来るのは彼にとって嬉しいことです。

でも、元服した子を、帝は藤壺の御簾の中には入れないようにしました。

ここらあたりから、母のように慕う気持ちは、憧れの女性という意識へと徐々に変化していきます。

物語では、藤壺を完全な女性として描いており、それは光源氏の心が吸い寄せられる事の正当的必然性を説いているようにも読めます。

藤壺の懐妊

さて、時は少し下り、藤壺が23歳の頃に体調を崩して実家で療養をすることになりました。

そこに光源氏が、彼女の女房に取り入って、なんと藤壺の布団の中に入り込みました。

拒んでも男の力にはかなわないし、結局は受け入れざるをえなく、無力な自分に対して打ちひしがれるのでした。

ところが光源氏には、藤壺の抗う顔も打ちひしがれる顔も高貴でただただ美しく、心が惹かれる要因でしか有りませんでした。

この逢瀬によって藤壺は身ごもります。

まさか、光源氏が訪ねてきて、、と言えるはずもなく、帝には「あなたの子を身籠りました」と嘘をつき、これを生涯にわたって貫きます。

藤壺は、非常に常識人でしたので、相当長期に苦しみ、物語ではその悲哀を切々と綴っています。

一方の帝は喜びましたよ。全ての寵愛を傾けている藤壺から自分の子(実は光源氏の子)が生まれてくるのだから。

帝はこの子を東宮とし、これが朱雀帝の次の冷泉帝となります。

皇子誕生

やがて藤壺は無事出産しとんでもなく可愛い男の子が誕生したのです。どれくらい可愛いかと言えば、光源氏に瓜二つだったのです。

しかし逆に、藤壺はいよいよ辛くなり、とはいえ、喜んでいる帝に真実を語れない日々が続きます。

自分自身の心情もさることながら、もし事実がわかってしまったら、我が子の将来に大きな悪影響を及ぼすことになるから。

ある管弦の席で、帝は光源氏に皇子を紹介します。「どうだ、あなたにそっくりだろう」と。

皇子の母の決意

時は立ち、既に第一皇子の東宮(弘徽殿女御の子)に帝の位を譲ったあとは、桐壺院として藤壺とは仲良く毎日を過ごしていました。

そして、藤壺の皇子は東宮に。

穏やかな日々だった藤壺が27歳の時、桐壷院は病に伏し、そして帰らぬ人となります。

喪明けあたりから、気持ちを断ち切れてなかった光源氏が、またぞろ、藤壺にちょっかいを出そうとしてきます。

ここからの藤壺の立ち回りが実に見事でした。

光源氏はせっかく東宮になった我が子の後見人。我が子の将来を思えば、この状態を崩せない。実態は光源氏の子でも桐壺帝の皇子として帝にせねば。

しかし、光源氏は、どんなに警戒していても寝屋に入り込み着物を脱がそうとする。それでも尚、藤壺は抵抗するのです。流された過去の藤壺はもういない。

我が子絶対、どんな事があっても、それを裏切るような真似はしない、させない。

とはいえ、光源氏ががっかりして出家でもしようものなら、それはそれで東宮の後ろ盾がなくなってしまって不味い事この上ない。

そんなこんなで悩んだ藤壺は、遂に自ら出家する道を選んだのです。

光源氏の都落ちそして我が子の即位

光源氏は、後でお話することが原因で、明石に都落ちします。これは、息子の後見人が京からいなくなる事を意味するわけで、藤壺は大層心配します。

それでも数年後には京都に戻り、東宮も無事冷泉帝として即位することができました。

藤壺の死

ほどなくして藤壺は病に倒れます。

「おくと見る ほどぞはかなき ともすれば 風に乱るる 萩のうは露」

彼女は自分の人生を「誰にも真似のできない程の栄華の中で生まれ暮らしてきたけれど、苦しみもまた人一倍でした」と振り返っています。

冷泉帝とお別れをして、最後は光源氏の言葉を聞きつつ息を引き取りました。享年37歳。この時、冷泉帝は14歳。

結局、冷泉帝は最後の最後まで、自分の実の父が光源氏であることを知らぬままでした・・・とはならぬわけでして。

おせっかい千万な老僧

藤壺が懇意にしていた老僧が、四十九日法要も済んだある夜明けの頃、出生の秘密を打ち明けてしまいます。

今更のように知ってしまった冷泉帝は、とても戸惑って悩みます。

そのあたりは省略しますが、そもそも僧侶とは口が堅いものです。

母親の藤壺が生涯告げなかったことを、最も信頼されていたであろう僧がぺらぺら喋るか?と私は思うのですよ。例え、どんな言い訳があるにせよ。

香りを移すための香炉

葵の上

12歳と16歳の結婚

光源氏は12歳で結婚しました。そのお相手が葵の上で、結婚時の年齢は16歳。つまり、4歳差の姉さん女房ですね。

当時は、成人になる儀式の元服が12歳〜16歳の間くらいに行われたので、12歳で結婚も不思議ではありません。

葵の上の父は左大臣、母は桐壺帝の妹・大宮(内親王)で、大宮は光源氏のおばになります。

ということは、光源氏と葵の上はいとこ同士になんですね。

政略結婚の悲哀とそれぞれの思惑

桐壺帝の第一子は弘徽殿女御の子、東宮でした。実は、東宮も葵の上もお互いに結ばれることを望んでいました。

家柄から考えても、東宮と葵の上は正にぴったんこで文句なしでしょう。

ところが、これを阻止したのが実は桐壺帝です。何故か?

桐壺帝は桐壺更衣の身分が低く、自分以外に後ろ盾のいない光源氏を案じて、左大臣に相談したんですね。

「あなたが光源氏元服の後見人になって、娘の葵の上を添い臥しにしてくれないか?」と。そして左大臣はそれを受け入れる。

では、左大臣はなにを考えていたのか?

実は時の右大臣が目の上のたんこぶで、策を講じる必要性に迫られてました。

というのも、桐壺帝の正室、弘徽殿女御は右大臣の娘で、その第一子、東宮は自分の孫になるという身分。東宮はやがて天皇になるのだから右大臣はウハウハ。

そんなわけで、左大臣の対抗策と桐壺帝の思惑と合致して上記の結果になったのです。

他方、葵の上は皇后を夢見て東宮に嫁ぎたかったのに、臣籍降下で皇族から外れた光源氏と結婚させられる羽目になったのです。

これ以上ない環境に生まれ育ち、知性教養センス見識に溢れ、山盛りのプライドをもった葵の上の気持ちたるや、想像に難くないですよね。

葵の上の儚くも悲しい運命

先にお話したような事情があったので、光源氏に対する葵の上の態度は容易に想像ができようというものです。

しかし、光源氏も全く通わなかったわけではないらしく、結婚9年にして遂に懐妊。

ところが、難儀なことに悪阻が極めてひどく、苦しい思いを連日することとなり、流石の浮気男も少しは情が湧いたか。

やっと、無事男の子を出産し、少しは家庭も明るい方向で安定するかに見えたときに事件は勃発します。

出産直後に、後に紹介する浮気相手、六条御息所の生霊が葵の上に取り憑いて、その命を奪ってしまったのです。

六条御息所をそこまで駆り立てた原因は「嫉妬」です。

物語中、和歌を詠まなかった唯一の人

そうなのですよ。

光源氏と関係を持った女性は、みな沢山の和歌を詠んでいますが、唯一、光源氏との間で一首も和歌の交換がなかった女性が、正室である葵の上です。

知性も教養もある葵の上に対するこのような設定は、ある意味わかり易すぎますが・・なんだかね。

貴族の食事

空蝉

空蝉の顔をこき下ろす紫式部

具体的に内容に触れる前に、紫式部が空蝉の顔をどう描写しているか確認しましょう。

まあ一回、原文↓を詠んでみてください。

「目すこし腫れたる心地して、鼻などもあざやかなるところなうねびれて、にほはしきところも見えず。 言ひ立つれば、 悪ろきによれる容貌をいといたうもてつけて、 このまされる人よりは心あらむと、目とどめつべきさましたり。」

目は腫れぼったく、鼻筋は通っておらず寧ろ老けたふうで、どこにも華やかさを感じない。一つずつ見ればブサイクこの上ないが、上手に隠して、隣の美人よりも嗜みがあると思われるような態度をしている。

ね、無茶苦茶でしょう?

みんな美人ばかりではあれだから、変化をつけるために空蝉をブスにするのはわからんではないですが、ここまでボロクソにこき下ろす理由がいまいちよくわかりません。

こういう落差の大きい設定が飽きさせない要因の一つと考えたのでしょうか。または、朝見た自分の顔にムカついて、それを文章にしたとか。

それとも、光源氏がダボハゼだと言いたかったのでしょうか。

後ろ盾のない悲しさと不本意な結婚

さて、話を戻しますが、

空蝉の父は中納言兼衛門督でした。

中納言という官職の身分は従三位(じゅうさんみ)で、高級貴族です。が、父亡きあと、空蝉には後ろ盾がなかった。

だから、当初希望していた宮仕えも実現しなかったのです。

何度か説明してますが、支えてくれる有力な貴族がいないと、当時はいとも簡単に地位が落ちるという事情があったのです。

それで、収まった先が、なんと親子ほども年齢差のある伊予介(いよのすけ)の、しかも後妻です。

伊予介には子が二人おり、男の子が紀伊守(きいのもり)、女の子が軒端荻(のきばのおぎ)です。この子たちの年齢が空蝉と同じくらいです。

伊予介もその子の紀伊守も光源氏の配下です。

伊予介は今の愛媛県を統治する地方官僚であるのに対し、先に説明しましたように空蝉の父は中央高級官僚でした。

当然、空蝉のプライドは傷ついたでしょうし、愛のない生活の原因は年の差だけではなかったはずです。

中流階級の女性との運命的な出会い

光源氏は葵の上の兄である頭中将ととても仲が良い関係でした。

ある日、宮中の宿直所(とのいどころ)で朝まで女性談義に花を咲かせていました。

ここで、頭中将は「中流階級の女性こそが趣があって良い」みたいな話をし、光源氏も中流階級の女性に興味を持ちました。

夜が明け、葵の上のいる左大臣家に泊まるべく出発しましたが、途中で方角が悪いと気付き、方違え(かたたがえ)の宿泊先として配下の紀伊守の邸宅へ向かいました。

紀伊守の邸宅の場所

京都御苑のすぐ東側の護浄院のあたりであると思われます。

つまり、左大臣宅の真反対側ですね。

紀伊守は空蝉の義理の息子であり、たまたまこの時、空蝉は紀伊守邸に身を寄せていました。

中流階級の女性を目的として紀伊守邸を選んだのか、結果的に紀伊守邸に空蝉がいたのか。

光源氏は空蝉の寝床へ

皆が寝静まる頃、光源氏は空蝉が寝ているところに侵入しますが、一応、貴族らしい会話はしています。

結果的には、「未婚なら、一夜の戯れを、いつかは愛情に代えてもらえるかもしれませんが」という空蝉の抵抗も虚しく関係を持ってしまいます。

ところが、これっきりで、その後何度もアタックしてくる光源氏に体を許すことは一切有りませんでした。

有名なシーンは、空蝉が間一髪のところで気付き逃げ出し、寝床に行ってみると衣が一枚あっただけという場面です。空蝉の所以です。この薄衣を光源氏は持って帰ります。

このとき、一緒に寝ていた空蝉の義娘の軒端荻(おぎのはぎ)の布団に入り、間違ったとも言えず、結局は関係を持ちました。何と言う節操の無さ。

空蝉の確固たる価値観と内心

空蝉が光源氏に冷たく接するのは、決して本心ではないけれど、夫がいるという貞操観念と、落ちぶれ貴族のプライドもあったのでしょうか。

光源氏は、空蝉の弟、小君(こぎみ)を懐かせて、手紙を書いては持たせます。が、返事は全く有りませんでした。

姉が弟に叱るんですね「また持ってきて」。なんか微笑ましいと感じてしまいます。

夫について伊予へ下るおりに、光源氏から選別が届いたのですが、その中に持ち帰られた衣が入っており、返してほしくなかったという感情の見える記述があります。

以上のようなことから、自制心が強く流されはしなかったものの、心のなかでは、光源氏の存在は大きかったのだと思います。

ここに至る少し前に、空蝉はこんな和歌を残しています。

  • 空蝉の 羽に置く露の 木隠れて 忍び忍びに 濡るる袖かな
    (命の短いセミの羽の上にある、すぐに消えてしまう露のような私は、隠れて光源氏から温情を受けて、誰もいないところで忍んで泣いています)

光源氏の元で穏やかな生活

さて、10年以上が過ぎて、夫の伊予介は常陸介となり、その後病死します。

義息の紀伊守が父の死後、空蝉に色目を使うようになり、これに危機感を持った空蝉は出家します。

そして、経済的バックボーンのない空蝉を、光源氏は二条東院に引き取り面倒を見ます。

空蝉の話はいよいよ終盤ですが、空蝉は仏道から外れることなく穏やかに暮らし、訪れた光源氏と昔話で懐かしみ涙を流します。

平等院

夕顔

次に光源氏と関係を持ったのは、読者にとっても人気のある夕顔です。

夕顔の父は上流貴族だった

次に光源氏と関係を持つ女性は夕顔です。

夕顔の父親は三位中将でした。

三位というのは大納言や中納言クラスなので、上流貴族です。上流も上流。

夕顔はその娘だから、当然高貴の生まれなのですが、父親の死後、有力な後ろ盾がないことから落ちぶれる運命となりました。

夕顔は何故貧乏になったのか?

この記事では、後ろ盾となる貴族のバックアップがないと階級維持や生活が厳しいという話を何度もしています。

三位まで上り詰めていれば相当な財産を残すだろうし、それを相続する娘が落ちぶれ困窮するか?という疑問が湧いてもおかしくはありません。

確かに、三位中将は財産を残したかもしれません。ただ、それが夕顔の暮らしを高品位に安定させるかどうかはまた別問題です。

現在のように厳格な相続法はなかったし、それによる保証もありません。

また、財産と言っても、土地や荘園、衣服や調度品など、かなり流動性の低いもので占められていた可能性もあります。

これらを上手に管理し現金収入に継続的に変換するのは相当に困難であったと思われます。

やはり、有力な貴族の適切な支援や保護を受けなければ、結果的に経済的な困窮につながったのだと考えます。

夕顔の容姿

お側のものが「とてもきれい」とか「とても可愛い」などと光源氏に報告しており、そこそこではあったのでしょう。

でも、前述の空蝉の顔の描写のような的確な表現がありません。

どちらかというと、性格も含めて全体的に可愛いという様子が描かれています。

直ぐ後に登場する六条御息所が気高きプライドを持ち、容易には男を近づけない性格を持っているのに対し、夕顔は子羊のように大人しく従順で、男がつい助けたくなるようなタイプという設定です。

夕顔は頭中将の愛人だった。

夕顔が15歳のころから、光源氏の妻、葵の上の兄である頭中将の愛人となっており、二人の間には玉鬘(たまがずら)という娘がいました。

頭中将は夕顔が大のお気に入りで、大層かわいがっていました。

ところが、頭中将の正室の父親である右大臣から脅迫を受けて、夕顔は怖くなって姿を消してしまいます。

愛人を持つのが特別ではない平安時代に、正室の父親が横槍を入れてくる理由は、偏に夕顔の存在が頭中将の中で大きくなることを恐れたからだと思います。

後ろ盾を失った夕顔は、以後、貧しく暮らさざるを得ませんでした。五条あたりの相当裏寂れた屋敷に住んでいたと書かれています。

このころ夕顔は18歳くらいです。

光源氏との出会い

乳母の一人である「大弐の乳母」が五条に暮らしていましたが、病気だったので、光源氏はお見舞いに訪ねていくのでした。

そして、たまたま乳母の隣に住んでいたのが夕顔です。

乳母の家に入る前に、光源氏が隣の垣根に咲く夕顔の花に興味を示していたら、かわいい女童(めのわらわ)が、いい香りのする白扇子に夕顔の花を添えて光源氏に手渡してきたのです。

こういう寂れた風景の中で、いきなり高貴な風流に出会ったら、流石に光源氏も驚いたし興味も持ったことでしょう。

その送り主が夕顔だったのです。

夕顔町

夕顔は架空の人物ですが、この人に因んだ場所が京都にはあります。

四条通と五条通の中間に高辻通がありますが、その南側にあって、烏丸通から東に350m位入った場所です。

場所名はズバリ「夕顔町」。

物語の中で夕顔が貧しく住んでいたとされる場所で、江戸時代の絵図には既に記されています。

また、同所には「夕顔之墳」と刻まれた石柱が立っています。何とお墓まで!

夕顔の意外性と切実なアクション

女性から男性へアクションを起こすなんて当時ではなかなかなかったことです。

しかも、おっとりして、どちらかと言えば気弱そうな夕顔がそれをしたわけですから、読者もきっと何か意外感を持つはずです。

それに、次にでてくる六条御息所の性格が強烈なので、対比的な存在という意味合いを持たせているので尚更。

もう一つ気になるのは、やはり落ちぶれた女性貴族にとって、安定したそこそこの生活をキープするには、どうしても後ろ盾を探す必要があったのだな、ということです。

  • 心あてに  それかとぞ見る  白露の  光そへたる  夕顔の花
    (露の光が美しい夕顔の花は、まるであなた様のようです。)

あっけないエンディングが私には不自然

そんなわけで、急速に惹かれ合う二人ですが、短期間でなんともあっけない別れがきます。

8月15日、中秋の名月の夜、誰にも邪魔されずに二人の時間をと、夕顔を荒廃した屋敷に連れ込みます。

荒廃が夕顔の恐怖心を呼びとても恐れますが、仄かな月明かりのもとで語り合ってゆくうちに、次第に心も落ち着きつつありました。

いつしか光源氏がうたた寝をしており、夢の中に美しい女性が出てきて夕顔に手を伸ばそうとしているところで目が覚めました。

ふと夕顔の様子を伺うとどうもおかしい。汗をびっしょりかいている。

光源氏は急いで人を呼び明かりを持ってこさせ、改めて夕顔を見ると既に息途絶えていました。

ここに夕顔を連れてきたことをひどく悔やみ、そして、あまりの悲しみに体調を崩します。

この時、光源氏は17歳です。

夕顔の死因

光源氏の見た夢の意味。そして、その直後の夕顔の体調の急変。

このあたりを拠り所として、少し前までは、六条御息所の仕業ではと言われていました。

何と言っても、妻の葵の上は六条御息所の生霊に殺されていたので、これも大きな判断材料になっているようです。

しかし、原文では光源氏が、

「荒れたりし所に住みけむ物の、我に見入れけむたよりに、かくなりぬること」

と、荒廃屋敷に住んでいる物の怪が自分についてしまったのが原因だと述べています。

度々登場する京都の「条」とは?

平安時代に区画整理がされ、東西の大路を条と名付けました。北から南へ一条・二条・・・九条となります。

当時は大きかったかもしれませんが、今の一条通は、京都御苑の宮内庁京都事務所のあたりから西に伸びる一方通行の狭い道です。

九条通はJR京都駅の南側にある東寺の南側に隣接して東西に走っています。

尚、十条という地名がありますが、これは明治以降に九条通以南の一帯を命名したものです。

渉成園

末摘花

高貴な生まれで今は貧乏といういつもの設定

この頃の光源氏の女性関係はなかなか華やかで、読み手も常に頭の中を整理しつつ読み進めないと、ちょっと混乱するかもしれないという状況。

そんな中で次に登場するのは末摘花(すえつむはな)という、おそらく源氏物語の中で、最もエグく描かれた女性です。

常陸宮(ひたちのみや)という皇族の一人を父に持つも、没後、後ろ盾なく貧乏な生活を余儀なくされている。

高貴な生まれだけれど、今は貧乏な荒屋暮らしという、空蝉や夕顔と似たような設定ですが、さて二人とは何がどう違うのでしょうか?

紫式部の筆の特徴は、褒め言葉は短く、貶し言葉は果てしなくです。

空蝉の顔の描写も大概でしたが、それを遥かに凌駕する空前絶後にして源氏物語最大のけなしっぷりとは?

源氏物語中最強のブス

紫式部は自らの言葉で、或いは光源氏の言葉を借りて、正に罵り放題です。

  • 胴の長さにがっかり。
  • 鼻は、普賢菩薩が乗った象のようで、高く長く、先は垂れて赤く、甚だしく醜いかぎり。
  • 顔の色は、雪が恥ずかしくなるほど白く真っ青だ。
  • おでこが腫れたように広いうえに、下膨れで、信じられないくらいに長い顔だと思われる。
  • それに、体はかわいそうなくらいガリガリで骨ばっている。
  • どうしてすべてを見てしまったのだろうと後悔するくらいだが、あまりに異様なので、つい目が行ってしまった。

紅花のように紅い鼻

第6帖が末摘花(紅花のこと)という名称でよばれているのは、上記のように彼女の鼻先が赤いことに由来しています。

何が悲しくてこんなにこき下ろすのでしょうか。これが物語における紫式部流のメリハリなのでしょうか。

少しだけ持ち上げる

しかし、多少は褒めている部分もあります。

頭の形と髪のたれ具合だけは、美人に引けを取らない。

たったこれだけ。

服装のセンスもゼロ

ところがこれに続く行では着物をけちょんけちょんに貶していています(詳細は省略)。

その挙げ句、若い女性に似合うようなお召とは言えない目立ち方が異様だ。

でも、こういう服装でなければ寒さに耐えられないような顔をしていて、とても気の毒に思った。

顔はダメ、スタイルもダメ、服装もダサい。

さすがにもうネタもないでしょう? いえいえ、留まるところを知らないのですよ。

古風で頑固で内気で無粋

父である常陸宮からとんでもなく古風な教育を受け、それを頑なに守っておりとてつもなく頑固で堅苦しい。

無口で真面目で大人しいが気が利かず、そして世間知らずの上に風流も解さない。

一方、あり得ない程恥ずかしがり屋さんで、光源氏が出した手紙の返信をよこさないばかりか、恥ずかしがって読みさえしないのです。

その上、和歌を贈っても返歌さえできない無粋さ。加えて、その恥じらい方までもが野暮だと光源氏は嘆いています。

結局、光源氏は強引に関係を結びますが、それで妻になったと錯覚する世間知らずさ。

家柄以外のほぼ全てを否定された末摘花の未来はいったいどうなるのでしょうか?

出会いのきっかけと物語後半

さて、ここまでダメ出しをされたにも拘らず、光源氏が簡単に見捨てるどころか、最後まで面倒を見た理由が明らかになっていきます。

そもそも、およそ似つかわしくない人に、なぜ光源氏は惹かれたのでしょうか。

現代のように会う前から顔の確認ができたわけではないので、当然そこから入ったのではありません。

末摘花の容姿があまりにひどいと嘆くのは関係を持った後の話です。

実は、常陸宮程の人を父に持ちながら凋落していった娘、というシチュエーションに興味を持ったのが出発点です。

この時、光源氏は18歳でした。

須磨落ちと末摘花の一途さ

朧月夜の項でお話しますが、弘徽殿女御の怒りを買って、光源氏は2年以上に亘って須磨・明石に都落ちをしていました。

その間、末摘花は生活が困窮を極めているのに、一切の雑念を受け付けず、光源氏が自分を捨てるはずがないという信念で待ち続けます。

貧しい最中、女房や叔母から提案もありましたが、全て拒絶します。

良きも悪しきも吸収して、そして相対的な判断力が身につく、そういうプロセスや経験が末摘花にはなかったんですね。

末摘花のキャラをここまでマイナスに振っておいて、しかし一途なんだと含みを持たせて、そして最後に大どんでん返しをするという展開。

個人的にはあまり好きではないかも。

光源氏が京に戻りいよいよラスト展開

さて、やがて光源氏が京都に戻り、再び宮中での勢力を取り戻します。

ところが、もう末摘花のことはすっかり忘れていました。

京都に帰ってきたことは末摘花も知っていたので、いつ来てくれるのかと待っていたのですが、待てど暮らせど訪問がなく、悲しさのあまり号泣します。

春のある日、偶然、末摘花の家の近くまで来た光源氏が彼女を思い出し、遂に立ち寄るのです。

そして、女房の数も減ったとんでもない荒屋で、ひたすら光源氏を信じて待つ末摘花に感激し、ここからまた支援を再開したのでした。

とはいえ、女性として関心を持つ心は既になかったようです。

やがて二年が過ぎ、光源氏は彼女を二条東院に引き取り、常陸宮の娘にふさわしい境遇を与え、そして末摘花は以後穏やかに暮らすのでした。

女性として可愛がられることはなく、そういう意味での幸せや派手な生活もなかったかもしれません。

でも、心穏やかに静かに生活をすることができた、これもまた当時の女性の幸せの形の一つだったのでしょうか。

こういう形ではあっても、幸せを掴むことが出来たのは、彼女の心根が真っすぐで一途だったからでしょう。

髪の手入れ

 

紫の上

源氏物語中、最も重要な女性キャラが紫の上で、一番詳細に語られています。

少女時代の紫の上を、よく「若紫」と呼んでおり、また、物語第五帖のタイトルにも使われています。

しかし、「若紫」という単語が源氏物語に登場するわけではなく、いずれも後世の人達が使うようになったものです。

「紫式部」の由来

作者の紫式部というペンネームの「紫」も紫の上から来ているという説があります。

因みに「式部」は作者が仕えていた宮中での役職名です。

この「紫式部」というペンネームはいつから使われだしたのか?という疑問ですが、明確ではありません。

ただ、少なくとも江戸時代にはそう呼ばれていたようです。

最後に、紫式部の本名はわかっていません。

両親と親戚

父親は式部卿宮。母は按察使の大納言の娘で、物語では既に亡くなっています(故姫君)。故姫君は式部卿宮の正妻ではなく愛人でした。

故姫君の母親は北山の尼君(きたやまのあまきみ)ですが、故姫君が早死した関係で、紫の上は北山の尼君に育てられていました。

もう一つ重要なポイントとして、光源氏の義理の母にして理想の女性、藤壺更衣が式部卿宮の妹だったので、彼女は紫の上の叔母にあたります。

出会い

式部卿宮は正妻に気を使い、紫の上を引き取ることが出来ませんでした。

それで前述の通り、北山の尼君が紫の上を育てていました。

北山の尼君は体調を崩し、一時期、兄である北山の僧都の僧房で療養をしていました。

一方、全くの偶然ですが、熱病にかかった光源氏が祈祷を受けるために北山に来ていました。

そしてこれまた、たまたま垣間見た風景が北山の尼君であり紫の上だったのです。

このときに光源氏は稲妻に打たれたような衝撃を覚えます。

なぜなら、北山の尼君の横に座っていた少女が、あまりにも藤壺更衣に似ていたからです。先にお話したように、紫の上は藤壺更衣の姪です。

当然のように、何としても自分の側で生活させたいと願い交渉しますが、北山の尼君は「まだ幼すぎる」という理由で断ります。

なのでその時は思い通りにはならなかったのですが、やがて北山の尼君が亡くなると、強引に自分の二条院屋敷に連れてくるのでした。

攫われた紫の上には悪い話ではない

何度も説明しますが、この強引な手段も、方法はともかく、紫の上にとっては悪い話ではなかったのです。

当時は父親に扶養義務はなく、何かの理由で見捨てられたら、たちまち貧乏暮らしになってしまうのは何度もお話してのとおりです。

有力な後ろ盾は、長きに亘って生活するための必須要件だったのです。

この時、光源氏は18歳。

18歳といえば、藤壺更衣が光源氏の密通で懐妊した時期であり、また、末摘花と関係を持った時期でもあります。

前の年には空蝉や夕顔といった女性が光源氏と関係を持ってましたね。

あ〜ややこしい。

北山の僧房の場所

北山の尼君が紫の上とともに、一時住んでいた兄の家、北山の僧房とは何処なのか。

通説では鞍馬寺と言われています。

地図で確認するとよくわかりますが、京都の町からは結構離れた山奥です。

現在は、京都御苑のすぐ東側にある出町柳駅から叡山電鉄鞍馬線で鞍馬寺まで行くことが出来ます。

ちょっと脱線的豆知識

京都市内の町は盆地で、東側には東山連峰が北側には北山連峰が鎮座しています。

写真スポットとして推薦したいのは四条大橋の真ん中で、三条大橋の向こうに北山連峰が綺麗に見えます。

鞍馬寺は、方向としては北山連峰の右後ろ側です。

蛇足ですが、出町柳駅の少し北側には北大路通があり、更にその北側には北山通りがそれぞれ東西に通ってます。

なので、例えば「今度北山でデートしよか?」と言ったら、だいたいそれらの通り沿いや植物園近辺を想像します。(通り沿いには洒落たお店もたくさんある)

自分好みに育てたい

二条院での紫の上は、喜んだり恥じらったり拗ねたりと、とにかく純真無垢で素直で、接すれば接するほど心を奪われたのでした。

そして、このかわいい女性を、頭の上から足の先まで、何から何まで自分好みの女性に育てたいと思いました。

光源氏は、まともな教養事も自分に都合の良いことも精力的に教えます。

素直で才気煥発な紫の上は、それらをどんどん身につけ、光源氏の希望以上の理想の女性になってゆくのでした。

その後、光源氏の多層的な色恋沙汰に悩み苦しむも、表面を取り繕い、良い妻然とできたのは、このときの教育の成果でしょう。

一緒に暮らした二条院の場所

物語ですから実際に該当する建物があったわけではないですが、紫式部がモデルにした場所が、二条城の直ぐ東側にあり、説明の看板も立っています。

葵の上の死と紫の上との結婚

光源氏22歳。

葵の上が夕霧を出産した後、後述の六条御息所の生霊に呪い殺されます。

そこで光源氏は、葵の上の実家、左大臣宅で数ヶ月喪に服します。

その後、久しぶりに二条院に帰って紫の上に再会して、その大人びた美しさの向こうに藤壺更衣を見、改めて惚れ直すのでした。

とともに、結婚の頃合いだと心を決めます。

そこで、三日の夜の餅を食べ(結婚の儀式)、契を結びます。

ここに、紫の上は実質的な正室の座を得たことになります。なぜ「実質的」であって「正式な」正室でなかったのかは後述。

ところが、「自分好みに」とか言いながら、肝心の性教育をしてなかったのか、紫の上は酷く驚いて、痛く傷ついてしまいます。

何も知識も経験もないなら、まぁそらそうなるでしょう。今まで、優しい兄上か父上かと慕っていたのだから。

そういう事情で、紫の上が妻としての自覚を持てるようになるまで、少し時間がかかりました。

しかし、紫の上にはお世話をしていた乳母や沢山の女房達もいたし、そういう人達が全く教育をしてなかったというのはちょっと考えにくいかも。

とはいえ、実践経験がなかったのと、光源氏に対する想いが、大きなショックの原因であったのは間違いないでしょう。

明石の君との出会いと入京

光源氏25歳。

次に登場する朧月夜との関係が発覚して、光源氏は須磨へ退去せざるを得なくなりました。

またもや女性問題。紫の上も気苦労が絶えなかったでしょうね。

しかし、都落ちの際には、京の自宅や資産のことは全て紫の上に任せたので、やはり実質正室の紫の上に対する信頼は相当厚かったのです。

当時、いつ戻るともわからぬ主人をいつまでも待って、というようなケースはあまりなく、仕えていた人達は自分たちの将来を案じて、ポツポツと消えてゆくのが常でした。

ところが、紫の上の人望が非常に厚く、二条院からは一人の出てゆく者もいなかったのです。

光源氏27歳。

さて、須磨から明石に移って、先でお話する明石の君と知り合います。

例のごとく惚れて妊娠させて、その状態で京都へ一人戻りました。

光源氏28歳。

その後程なくして、光源氏の実子(あくまでも表向きは桐壷院の子)が即位し冷泉帝となりました。

天敵である弘徽殿女御も亡くなっており、こうなれば、もう完全に風は光源氏に吹いて、職位復帰も果たしました。

その後、天皇に次ぐ地位として、冷泉帝より准太上天皇(じゅんだじょうてんのう)を授かります。

一方、明石の君との事を全て聞かされた紫の上は、強い嫉妬心に苛まれ、酷く傷つくのでした。

紫の上、明石の姫君の養母となる

光源氏29歳。

明石では、明石の君が明石の姫君を出産します。そして、光源氏は、この母子を京に引き寄せます。

明石の姫君の養育を紫の上にお願いし、それを紫の上は辛いながらも引受けます。

これには、将来の政治的な構想が光源氏の頭の中にはあったからで、そのためには、母親役が身分の低い明石の君ではまずかったのです。

尚、同年、六条御息所が死去します。

六条院の造成

政治的地位をしっかり固めた光源氏は、五条河原町から南西側の広大な土地に大邸宅を建てました。

ここは六条御息所が住んでいた場所も一部含んでいて、総面積63,000㎡以上というとてつもない広さでした。

ここを4つに仕切り、関係のある女性や引き取った女性を住まわせたのです。

1/4づつとは言え、63,000㎡の1/4だからべらぼうな広さですよ。

これは↓拡大しても鮮明であるように、ピクセル数を多くしています。

女三宮が正室となる

光源氏は自身は上るところまで上り詰め、栄華を極めていました。

そして、最愛の紫の上を側に置き、幸せの絶頂であったはずです。

先に述べましたように、紫の上は本当の正室ではありません。

ここに降って湧いたように正室の話が舞い込んできます。

義兄の朱雀院が自身の第三皇女である女三宮を、是非正室にと言ってきたのです。

で、光源氏はこの話を受けます。女三宮は内親王で正室としてはまさに申し分のない身分です。

これで、政治的な地位は高位安泰。

しかも、女三宮は藤壺更衣の姪です。またしても藤壺更衣の影が。

女三宮については後で詳しくお話します。

この時、女三宮13歳、光源氏は39歳。ちょっと女三宮に同情します。

紫の上、出家を願い出る

さて、ここまで幾多の女癖の悪さを、「光源氏の教育」のお陰で我慢し、気丈に振る舞ってきた紫の上でした。

しかし、明石の君の件が、やっと少し落ち着いたら、次は、寝耳に水のメガトン級の正室決定事件。

もちろん、厚い寵愛を受けてはいたのですが、朱雀院の思惑が入って、光源氏は女三宮との時間が増えていったりしてました。

そこで、紫の上は意を決して出家の希望を光源氏に申し出ますが、光源氏は、なんだかんだと子どものように駄々をこねて認めようとはしません。

他の女ではダメなんだと言い訳をしつつ女三宮の元へ去ったその夜、紫の上は体調を崩し苦しい思いをするのでした、この時、またもや六条御息所の死霊出現。紫の上33歳。

その後は、身の上を脅かされるような事件はなく、まあまあ穏やかに40歳を迎えます。

春に大法要を営み秋に静かに亡くなる

そして43歳になって、再び体調を崩し、再度出家を申し出ますが、やはり却下されます。

光源氏は、これだけ多くの女性をとっかえひっかえしていても、紫の上だけはどうしても側に置いておきたかったのですね。

紫の上は、出家できなければ、せめて少しでも仏との縁をと、亡くなる年の3月に大規模な法要を営みました。

紫の上は六条院ではなく二条院にて法華経千部供養の主催者として取り仕切ったのです。

当時、女性がこれほどの法要を一人で行うのは大変めずらしく、それほど仏教にも精通していたのでした。

法要を執り行う(一番奥が紫の上)

しかし、その翌日から寝込んでしまい、少しお話をしたりできることはあっても、もう回復することはありませんでした。

明石の君との和歌の贈答

死期の近いことを予感する紫の上は、法華人議の3日目に、明石の君に匂宮をお使いにして和歌の贈答がありました。

紫の上が匂宮に和歌を託す
  • 紫の上「惜しからぬ この身ながらも かぎりとて 薪尽きなむ ことの悲しさ」
    (我が身を惜しいとは思いませんが、それでも、今これが最後と薪が燃え尽きる様を見ていると、命が尽きることの悲しさを覚えます。)
明石の君が和歌を受け取り返歌を考えている

対して、明石の君から送られた和歌は、

  • 「薪こる 思ひは今日を 初めにて この世に願ふ 法ぞはるけき」
    (今日の法華経千部供養から続く仏道への千年の思いのようにあなた様のお命も続き、そして仏法の解く世に導かれるように願います。)

そうして、最後の数カ月の間に、光源氏や六条院にいる女性たちと会話をしたり、和歌のやり取りをしました。

この内容が切なくて、悲しくて、読み手の記憶に深く残るのでしょう。

もう随分とやせ細り余命もあと僅かという日々を暮らしていましたが、遂に、9月がもうすぐ終わるある晩に病状が悪化しました。

そして、そのまま翌朝に明石の姫君に看取られながら、静かに静かに逝去したのです。

覚悟していたとは言え、それでも、愕然として茫然自失になった光源氏は、紫の上が亡くなった後で「出家させたい」などと言ってます。

息子に「それでは意味がないでしょう」と返されます。

なんともやるせない紫の上の一生です。

死後の葵の上と紫の上の対比

紫式部は、亡くなってから火葬されるまでの二人を極めて対比的に描いています。

まず亡くなり方ですが、葵の上は六条御息所の生霊に呪い殺されました。

一方、紫の上は、本人も周囲も何ヶ月も前から死期を悟り、最後は「露が消えるように」亡くなりました。

次に、火葬までの期間ですが、葵の上は3日間置いておかれたのに対し、紫の上は亡くなった翌日に荼毘に付されています。

葵の上は蘇生の読経を施されており、当時の高貴な人に対してはこうするのが一般的でした。

紫の上の死は、周囲の十分な心の準備期間があって、その上穏やかな亡くなり方で、この上、蘇生を望むことはなかったのだと思われます。

紫の上が軽んじられてたということではなく、そもそも、なんの施しもせずに3日も安置していたら腐敗が始まるのです。

光源氏は、そういう葵の上を送ったときの経験から、紫の上にはそんなふうになってほしくないと考えた可能性があります。

ともあれ、その後長期間腑抜けになってしまった光源氏は、早二年後には紫の上の後を追っています。

几帳越し

朧月夜

先に申し上げますと、この物語に登場する女性の中では朧月夜が一番好きかもしれません。

「好き」は、ほぼ感情なので、合理的な説明はできません。

光源氏と朱雀帝の無慈悲な対比

物語の中で、光源氏と義兄の朱雀帝は非常に対照的に描かれています。

容姿知性教養判断力など、どれをとっても光源氏には及ばず、でも、非常に温和で心優しいという設定が朱雀帝です。

朱雀帝の母は弘徽殿女御でしたね。この人の性格は息子とは真反対の剛毅さで、子の朱雀帝をさしおいて権力を恣にしていました。

実は、光源氏の正妻となった葵の上に、先に、朱雀帝が入内を要請していたのですが、父親である左大臣に断られていたのです。

思いもよらぬ光源氏との出会い

その後、右大臣の娘にして弘徽殿女御の妹、朧月夜の入内が決まっていました。

朧月夜は美しく華やかで縛られるのが嫌いという設定です。

さて、ある月夜、桜花の宴のあと、光源氏が宮中の廊下を歩いていると、偶然すれ違った女性を部屋に連れ込み関係を持ちます。かなり酒が入っていたということも関係したかもしれません。

何処の誰かもわからぬまま扇子を交換して分かれます。(扇子交換=また会おうという意思表示)

この時、光源氏は19歳。

朱雀帝との関係はどうなる?

朧月夜はこんな事をしている場合ではないし、事実が漏れぬように万全を尽くすべきだったのに、それをせず光源氏と会い続けるんですね。

そうすると時間の問題で周囲の知るところとなって入内は白紙に戻ってしまいます。

でも、結局は尚侍(ないしのかみ)となって朱雀帝にお務めはすることになります。

朱雀帝は朧月夜を大層お気に入りで、彼女は一身に寵愛を受けていたのでした。

弘徽殿女御ついに大爆発する

せっかくここまで来たのだから大人しくしてればいいものを、この期に及んで、朧月夜はまだ光源氏と逢瀬を重ねていました。

当然ながら、程なく弘徽殿女御の知るところとなります。そら弘徽殿女御は烈火のごとく怒り狂いますよ。

桐壺帝の愛を全て奪った桐壺更衣、そして今度はその息子が妹まで奪った。

「私をコケにするのも大概にしとけよ」とね、そんなふうに思ったことは間違いないです。

この怒りを行動にて表わす、それだけの権力がこの時の弘徽殿女御にはありました。

藤壺のお話の中で光源氏の都落ちの行がありましたが、その理由が実はここにあったのです。

朱雀帝の大きな愛と朧月夜の懺悔

須磨に行った光源氏とは、離れていても手紙でつながっており、帰ってきた後はまた再会します。

遠くなったり近くなったはするものの、結局合計で30年間近くもの長きにわたって付き合うことになります。

ところが、朧月夜の内心を朱雀帝はちゃんと知っていました。それを許して尚彼女を愛し続けたのです。また、光源氏が京に戻れたのも朱雀帝の決断によるものです。

朧月夜は朱雀帝の深い愛に申し訳なく思い後悔する行があります。これほどの大きな愛に包まれていたのにそれに気が付かずに逢瀬を重ねてしまったと。

朱雀帝は程なく冷泉帝に譲位し、そして朱雀院となりますが朧月夜とは一緒に生活していましたが、やがて朱雀院は出家しました。

すぐ後で朧月夜も出家しようとしましたが、後追いは本当の出家ではないと朱雀院に止められ、このときは思いとどまりました。

その後、また暫くの間、光源氏と付き合っていた朧月夜でしたが、ゆっくりと支度を整えて結局は出家します。

この時、朧月夜は光源氏には何も伝えず、彼が知ったのはあとになってからです。

朧月夜からすれば、もし事前に光源氏に打ち明けたら、きっと出家できないと考えていたのでしょう。

おそらく、長きに亘って心が揺れ動き続けたんですね。その度に心の距離が近くなったり遠ざかったり。

これを最後に、朧月夜は物語から姿を消します。従って、彼女の最後もどうなったのかはわかりません。

うじばし

六条御息所

皇后になる予定だった高貴なる人

六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の父親は物語で詳しい説明はなく、大臣であった事以外はわかりません。母親も登場しないので、両親の詳細は不明です。

ただ間違いないのは、容姿端麗、高い教養、高貴な身分。そういうものが備わっていたということです。

彼女は16歳で、将来天皇になるであろう桐壺帝の弟(同腹)である前坊と結婚し、すぐに女の子(秋好中宮)をもうけています。

しかし、彼女が20歳のときに前坊は亡くなりました。死因については、これまた言及されていません。

光源氏との出会い

その後、25歳になって7歳年下の光源氏と恋愛関係になります。ただ、出会いの詳細についても全く説明されていません。

当時の公家貴族社会の男性陣の間では、知らぬ者がいない程の女性。それが六条御息所です。

当然のように光源氏は興味を持ちます。彼は彼女の高貴な女性らしい深く高い教養に惹かれていきました。

「なにげなくさらさらと書いた文字でさえとてつもなく美しい」みたいな感嘆をしています。

六条御息所は夫の死後、浮いた話のない身持ちの固い女性でした。そんな彼女が何故光源氏と恋仲に落ちたのか?

彼女の心情の変化は書かれてないのでわかりません。

勿論、光源氏が美男子で優しくて頭脳明晰というような部分は大きなアピールポイントでしょうが、六条御息所がそこだけに惹かれ心を許したとは思えません。

当時の社会で随一と噂の高かった女性に言い寄る「素晴らしい男」は幾らでもいたでしょうし。

では、光源氏が他と決定的に違う点は何か? それは帝の子であるという事実なのです。

この事実こそが、彼女のプライドを納得させる一番のポイントではなかったかと推察します。

とはいえ、光源氏が猛烈に口説いたのが直接的な原因であったのは間違いないです。

しかし六条御息所は、光源氏には葵の上という正妻がいることは当然知っていました。この辺、心のなかでどう折り合いをつけたかは不明です。

六条御息所が近づくほど光源氏は距離を置く

確かに六条御息所から溢れ出る知性教養センス見識は女性の大きな魅力で、そこに惹かれ、付き合い出したは良いのですが、、、

光源氏が葵の上に感じた、胸襟を開かない硬さ重苦しさは、ある意味同じ境遇で気位の高い六条御息所にも感じていたかもしれません。

どんどんのめり込んでいく六条御息所に対して、光源氏は付かず離れずというスタンスをとるようになります。

だいたい浮気男って、女性があんまり情深くなると束縛感が強くなり、次の浮気がしずらくなって「追われるうさぎは逃げる」状態になるっていうのはよくある話です。

車争いと潰されるプライド

そうこうしていた時に、葵の上の懐妊の知らせが。

「えっ、あの二人は仲が悪かったんじゃないの?」そんな思いが過ったことでしょう。

葵の上は正妻なのだからこうなっても当然なのですが、六条御息所にしてみれば、光源氏と葵の上の不仲は、ある意味心の支えだったかもしれません。

ちょっと心が折れかかっている時に更なる決定的な出来事が。

実は一人娘の秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)が、朱雀帝の即位の際に伊勢斎宮に選ばれ、六条御息所は娘に同行して伊勢に行くことにしました。

しかしそうすると光源氏と会えなくなるわけで、出かける前にひと目見たいと思ったのは納得のいくところ。

それで、ちょうど葵祭に参加する光源氏を見るために出かけました。

ところが何ということでしょう、途中、後から葵の上の車が来たんですね。で、譲る譲らないで必然的に車勝負。牛車同士の戦い。

屈辱的な牛車争い

車争いの図

屏風絵中央の上側が六条御息所の牛車で、下側が葵の上の牛車です。

六条御息所の牛車の轅(ながえ:牛と繋ぐ棒)を置く榻(しじ:轅を置く台)がひっくり返されてます。

しかし、方や身重の正妻。方や謂わば愛人ですからね。

祭りで酒が入って車争いをしていたら、周囲にあれは愛人の車だとわかってしまう。

優位に立つことは不可能で、恥をさらした挙げ句、結局は、道を譲らざるを得なかったという認め難い結末です。

くっくっくやしい〜〜!!!

生霊が葵の上に取り憑く

元々頭切れまくりで気位の高い六条御息所にすれば、いやしくも元東宮妃である自分が、何故ここまで辱めを受けねばならないのか?という思いですよ。

富士山よりも高いプライドをぐちゃぐちゃに潰された心は、今まで理性で押さえていたのに、コントロール不能な嫉妬に覆われてしまいます。

極限まで歪になった心は遂に生霊となって、身体から抜け出して、葵の上に取り憑いてしまったのです。

その結果、葵の上は亡くなるのですが、取り憑いている最中に、生霊は光源氏に恨み言を言いまくります。

生霊は体から離れているからか、その所業は、体の持ち主たる六条御息所には、どうもすぐにはわからないようです。後で気づく、みたいな。

こうなってしまっては、光源氏との仲も最早修復不可能ですね。

死後も死靈となって愛人を脅かす

六条御息所はやがて伊勢から京の町へと戻ってきますが、直ぐに病に倒れます。

程なくして亡くなってしまいますが(享年36歳)、それで存在を消さないのが強烈な嫉妬心と歪んだプライドの持ち主。

そう、死しても尚死靈になって、光源氏の後の正妻の女三宮や実質正妻である紫の上の生命を脅かし続けます。

一方、亡くなる直前に彼女が光源氏に申し渡した言葉がなんとも切ないですね。

「どんな事があっても娘にだけは手を出さないでくださいね」

この遺言ともいうべき言葉を光源氏は守り、手を出したい気持ちをぐっと堪え、ちゃんと面倒を見て冷泉帝のもとに送り出します。

しかし、まだ死靈は光源氏にまとわりついて「お願い通り、娘の面倒を見てくれたことは感謝しますが、それと私の恨みは別の話です」と告げるのです。

この話を聞いた彼女の娘、秋好中宮は、母を成仏させるために供養を行い、以後、やっと死靈は出なくなりました。

愛と嫉妬が表裏一体なら、表現できないほどの強い強い愛を、死にきれないほどの愛を、光源氏に持っていたと容易に推察できます。

***

もし源氏物語の中で、最も存在感のある女性を二人選ぶとすれば、六条御息所と紫の上でしょう。

六条御息所周辺は謎が多い

54帖にも上る大長編の源氏物語は、順々に読んでゆくと、矛盾している部分があるのに気が付きます。

特に、六条御息所周辺にはそれが多く指摘されており、昔から研究の対象となっています。

例えば、六条御息所の年齢、光源氏との年齢差、また、元夫であった前坊も実は続柄が不詳です。

ここでは長くなるので省略しますが、興味があればご自分で調べてみてください。

明石の君

「京都」と「須磨」と「明石」の位置関係

「紫の上」の章で、朧月夜にちょっかいを出したことが発端となって、光源氏が須磨へ退去せざるを得なくなったとお話しましたね。

ところで須磨ってどこ?

はい、確認しておきましょう。神戸から約10kmくらい西に位置します。

ここから更に西へ約14km行くと明石があります。京都から歩くと、淡路島を南に見て、そして通り過ぎたあたりが今の明石駅近辺で、京都から全長約90kmくらいです。

もし牛車に乗ってこの距離を移動すると、天候や宿泊も勘案すると、大凡5日から7日程度はかかったと思われます。

それくらい田舎に、今回登場する明石の君が住んでいたという設定で、この設定が大きな大きな意味を持ちます。

明石の入道と明石の尼君

この二人は明石の君の両親です。

明石入道は元近衛中将、つまり中央高級官僚であったのです。

近衛府は天皇の守護組織であり、その組織の中将は実質的な指揮官の一人です。

この事実で、貴族社会の中でもそこそこの家柄であったことも確定します。

ところが自ら望んで播磨(兵庫県南西部)の受領に成り下がり、さらには出家してしまいました。

「入道」とは?

「入道」とは僧侶に対する呼称です。

幾つかの意味があるのですが、ここでは「元々高い地位や身分を持っていた人物が出家した」意味です。

一方、明石の尼君(あかしのあまぎみ)は明石の君の母親で、その祖父が親王という、つまり皇族の血を引くとても高貴な家の出でした。

もし、両親とも京都に住んで高級官僚のままなら上流貴族であったのです。

ところが、明石入道のへそ曲がり気質のお陰で、明石の君が大変な気苦労を背負う羽目になります。

過去に上流貴族であったことなぞ、一旦落ちぶれてしまえば何の役にも立たないということを、紫式部は殊更強調しているように感じます。

光源氏との出会い

両親は元々高貴の人たちだったので、明石の君は高い教養や見識を身につけることが出来ました。

明石入道は、どうもよくわからない二面性があって、自分の子は光源氏と結婚させたいと画策するのですよ。

だっておかしいでしょ。自分は中央官僚を捨てて田舎の坊主になったのに、娘には高級貴族と関係を持って欲しい、つまり一族の繁栄を願うってことですからね。

そして、須磨へ光源氏迎えの舟を出すのですが、その辺の辻褄を、明石入道と光源氏の夢の中の話を通して合わせようとしています。

光源氏は、それ以前から噂だけは聞いていて、明石の君に対して興味を持っていました。

それに加えて夢の一件もあって、上流貴族であるはずの光源氏が、わざわざ船に乗って出向いたのだと想像します。

いよいよ明石の君の住まいに行って、まずは文字で交流を図りますが、明石の君は気高くプライドが強く、面さえ見せない。

業を煮やした光源氏は、例によって、強引に契ります。

明石の君のポイント

教養があって気高く「プライドが高い」、一方、六条御息所のように自我が生霊を呼ぶという性格ではなく、あくまでもわきまえを持って控える精神がある。

後になって、京に呼ばれて行きはしますが、自分が低い身分であることを悲しくは思っても決して忘れず、相応の態度を終始崩しはしません。

「非常にプライド高く高貴、でも身分をわきまえた慎みを持っている」これを紫式部はかなり強調しています。

光源氏の還都と明石の君の出産

「紫の上」の章でも説明しましたが、朱雀帝が譲位直前に、光源氏憎しの母親・弘徽殿大后を押し切り、光源氏を京に戻しました。

明石滞在時の光源氏の心は紫の上への思いから揺れて、明石の君との距離が離れた時期もありましたが、結局はまた親しく訪ねてました。

いよいよ京への出発が迫る中、「いつか京へ迎えるから」と明石の君に約束をしました。

その時、明石の君のお腹には新しい命が宿っており、やがて翌年には女の子(明石の姫君)を出産します。

明石入道はホクホクだったでしょうね。思い通り、娘が光源氏の子を生み、それも女の子。

娘が京に呼ばれ、孫娘が帝の妃になれば満願成就。実際に物語はそう進んでいきます。

明石の君、遂に京に移り住む

やがて2年が過ぎました。その間何回も上京の要請を光源氏は明石の君に出してました。生まれてきた子のことも当然気にかかっていたでしょう。

ところが、控えめで奥ゆかしい明石の君は、自分の身分の低さを考えて決断が出来ませんでした。さりとて、明石の姫君に田舎暮らしをさせたままで良いのか・・・。

この状況を打開すべく、またもや明石入道が立ち上がります。

上京させようにも、光源氏の二条院に入ると、そこにいる身分の高い女性達に対してつらい思いをするかもしれない。

そこで、京にある別荘(大堰山荘)に少し手を入れて、ここに移り住むように諭したのです。

ようやく移住を決心し、明石の君は、明石の姫君そして明石の尼君とともに出発します。

明石の尼君は功労者

実母である明石の尼君は、物語では前面にはでてきませんが、明石の君を色んな面でサポートし、影で支えています。明石の君が精神的な均衡を保てたのも明石の尼君あってのことです。

それにしても、なぜ紫式部は「大堰」というエリアを選んだのか?は昔から論争になっています。

大堰山荘の場所

大堰山荘(おおいさんそう)があったとされる場所は、今で言うところの嵯峨野・嵐山です。

渡月橋の下を流れる川の名称

ちょっと川の名称を先に説明します。

嵐山には有名な渡月橋がありますが、ここより下流を桂川、上流を大堰川と呼びます。

また、亀岡市の保津橋から嵐山近辺までを保津川と呼んだりもします。

しかし明確ではなく、多分、京都の人でも複数の主張があると思います。

ついでに、現在の住所分けの話しをしますと、川の北側が「嵯峨」、南側が「嵐山」です。

大堰山荘の場所は?

さて、大堰山荘の場所は源氏物語に「大堰川のあたり」と記されているので嵐山(嵯峨野)であったことは間違いありません。

具体的には諸説ありますが、私は、渡月橋から北東に直線で200mくらいの場所にある臨川寺付近ではないかと考えています。

大堰山荘の元の所有者は明石の尼君の祖父で、この人は醍醐天皇第十六皇子・兼明親王に準拠するといわれているので、皇族の別荘だったんですね。

娘との別れから六条院入居まで

光源氏が大堰山荘を訪ね、久しぶりに明石の君と再会するとともに、初めて我が子、明石の姫君にも対面します。

明石の君の、より完成された女性らしさや立ち振舞に感動し、そしてあどけなく可愛い笑顔の我が子の存在をとても嬉しく思います。

この時、光源氏29歳。

その後まもなくして、二条院に来ない明石の君を説得して、明石の姫君を紫の上のもとに連れてきたのは前述のとおりです。

やがて、大堰山荘に明石の君が来てから4年が過ぎて、光源氏は鴨川の側に六条院を完成させました。光源氏が最も光り輝いていた時期です。

この時、光源氏35歳。

春夏秋冬に4区分された大邸宅に、次々と女性たちは引っ越してきます。

そしてなんと、あれほど身の程をわきまえてたはずの明石の君が、すんなりと引っ越してきたのです。分け与えられたのは冬の町。

六条院四季の町

辻褄が合うようなそうでないような・・

これがよくわからないのですが、源氏物語は、非常に気を配って物語を練っている部分とそうでない部分があるように思います。

だから、時々「あれっ?」となるのかなと。

それはそうと、冬の町は六条院の北西側、一方、光源氏、紫の上、明石の姫君が住んでいたのは南東側です。

同一敷地内に引っ越してきても、明石の君はそう簡単に娘と会うことは出来ず、文字の交流のみに限定されていました。

娘の東宮入内と8年ぶりの再会

明石の姫君は11歳になり、東宮に入内(結婚)が決まりました。

明石の君は、この時に付添人として、なんと8年ぶりに我が娘と再会します。とともに、紫の上とも初めて対面します。

もちろん感無量であったでしょうが、同時に、非常に複雑な感情が渦巻いていたのではないかと推察します。まあ過去のいきさつを勘案すれば当然でしょう。

そして、明石の姫君は女御となり子を生み、長男はやがて東宮となり、明石の女御は国母になりました。

明石の女御の出産

当時の出産は、まさに命がけ。

出産にまつわる様々な苦しみは、物の怪の仕業だと考えられていました。

生霊・死霊の災が及ばぬように加持祈祷が行われ、いよいよ出産が近づくと、部屋も人も白一色になるのでした。

尚、出産した場所は六条院の冬の町です。

明石の女御出産

写真の中央上部で横になっているのが明石の女御。

その右奥に顔だけ見えているのが紫の上。

左側の男性は光源氏で、腕の中には今生まれたばかりの第一皇子。

この時、光源氏39歳。

紫の上と明石の君の醜くならない関係

光源氏が明石の君と関係を持ち、おまけに娘までもうけて。

当初、当然ながら、紫の上は非常に嫉妬したし苦しみました。

その上に、この娘の養女になってほしいと依頼されるに至っては、心中察するに余り有るでしょう。

光源氏も大概えげつない。紫の上の心は犠牲になってもいいのかい。

一義的には、娘の将来を案じ、紫の上に育てさせることで、よい縁談が来るようにということでしょうが、その先には自らの地位の安泰への希求が透けて見えてます。

紫の上の性格設定の無理矢理感

紫式部は、知性教養センス見識の備わったプライド高き紫の上に関して「子どもが大変好きな性格」という、やや無理筋な条件を盛って、なんとか養女受諾という方向へ話を持っていってます。

ということで、最初は複雑な気持ちが勝っていたかもしれませんが、育てるうちに本当に可愛くなるし、明石の君に対するつらい気持ち(嫉妬心)も少しずつ収まってきました。

また、紫の上の非常に強い理性は、娘と引き裂かれた明石の君の傷心に対して心配したり同情したりする心も成立させています。

とはいえ、愛人の娘を育てさせられてるに変わりはないので、辛い気持ちがそんなに簡単に消えるわけもありませんでした。

話が明るく進展するのは、明石の姫君が入内してからです。

明石の女御出産全景

女三宮

女三宮の行く末を案じる朱雀院

明石の君の娘、明石女御が子を生んでから10年の月日が流れました。

光源氏も40歳が目の前です。

光源氏憎しの弘徽殿大后を押し切って、光源氏を京に戻してくれた朱雀帝(この時点では朱雀院)も譲位してからはや10年。

朱雀院は、出家をしようと支度をしていましたが、それにしても気になるのが、特に猫可愛がりしてきた第三皇女の女三宮です。

まだ若いのに、母親は既に死去し、後見人もいなかったために、甘やかせて育てた分心配も大きかったのでしょう。

なので、なんとか結婚をさせようと画策し婿候補を何人もピックアップしましたが、いづれの候補も身分や経済的能力などが朱雀院の目に叶いません。

そこで目をつけたのが腹違いの弟である光源氏です。

この頃、朱雀院はあまり体調が芳しく無く、出家したころに光源氏はお見舞いに訪れてました。

このタイミングで朱雀院は、縁談を受けてくれるように光源氏に頼みます。

この時、光源氏は40歳、女三宮は14歳。実質父親代わりという思いも朱雀院にはあったのかもしれません。

何と言っても二人は異母兄弟、既にかなりの信頼関係が築かれていました。なので杓子行儀な話ではなかったでしょう。

光源氏の愛した藤壺と女三宮の母である藤壺

この二人は全くの別人です。なのに何故同じ「藤壺」なのでしょうか?

実は、「藤壺」はエリアというか建物の名称です。

天皇の住む御所を内裏といい、その北側半分が後宮です。後宮は正室や更衣や女御など天皇と関係する女性が住んでいた場所です。

「藤壺」は後宮の西側にある建物の中の一つの別称で正式名称は「飛香殿(ひぎょうしゃ)」といいます。南側の庭に藤の木が植えられていたところから「藤壺」の別称がつけられました。

そこに住む女性は、源氏物語的には常に「藤壺」であり、「藤壺」は天皇が変わるごとに別の「藤壺」になるわけです。

因みに、物語の後半にもう一人、別の「藤壺」が登場します。

内裏図

女三宮、光源氏のもとに降嫁する

光源氏は、憧れの女性、大きなリスクを犯して子(冷泉帝)までつくった藤壺の姪であることから、女三宮に興味を持ちました。

そういう心が惹かれる要因もあって朱雀院の願いを受け入れ、ここに女三宮の降嫁(皇女が皇室以外の人に嫁ぐこと)が決定したのです。

もう一つの要因として、朱雀院が病気になってしまったことも光源氏の心を動かしたのではないかと想像します。

そして、彼女もまた六条院に入ります。住んだのは紫の上がいる春の町です。

とはいえ、春の町だけで4800坪以上あったので、決して息が詰まったりはしなかったでしょう。

光源氏の心の内ですが、物語の全体のトーンとしては、「しょうがなしに」という印象が色濃く、紫の上を決して軽んじているわけではないというニュアンスが強いと私は感じています。

実質正妻と本当の正妻

紫の上は葵の上亡き後実質的な正妻でした、しかし、女三宮は本当の正妻です。

この差は何か?

紫の上は兵部卿宮の子ですが、母親は正妻ではないです。母親方の後ろ盾(経済力と実家)がないのはかなり致命的です。

後ろ盾のない紫の上とは正式なお披露目(婚礼の儀)が出来ず、それでは正妻になれないわけです。

しかし、もし紫の上に光源氏の子がいたら話は変わった可能性があります。仮に、その子が女の子で明石の姫君の子のように入内するならば・・・みたいな話です。

対して女三宮は内親王(嫁になる女性でこれ以上の身分はない)です。降嫁儀式もたいそう盛大で3日間続きました。

貴族世間的には誰もが納得する正妻です。

が・・・女三宮も母親が既に亡く、後ろ盾のないことを朱雀院もずいぶん心配していたので、その点をどうクリアしたのか、これがよくわかりません。内親王という身分であればOKなのか?

女三宮は光源氏の期待通りだったか?

はたして女三宮は、光源氏の理想とする藤壺と比較できるような女性であったのでしょうか?

物語から読み取れる彼女の特徴は・・・

  • 幼い・無邪気
  • おおらか・おっとり・人見知りしない
  • あまり羞恥心がない
  • 気配りができない
  • 利害に疎く打算がない
  • 和歌は下手で字も汚い
  • 小さくて華奢

出会った頃の紫の上とは比較のしようもなく、光源氏は大層がっかりするのでした。

とはいえ、最初は朱雀院の手前もあり、最初は、毎晩女三宮の元に通います。

凛として気高く、知性教養センス見識に溢れ、和歌を贈れば意を見抜いた文才あふれる返歌をよこしてくれる、そういう女性が好みであった光源氏からすれば、ほどなく通う気力が失せるに十分だったのでしょう。

しかし、そこは内親王であり、朱雀院が心配していることもあり、それなりの待遇はしていました。

女三宮と紫の上の関係は親子みたいな関係?

やがて紫の上の意思により女三宮との面会が実現します。さて、どうなったか?

その前に、光源氏が応対の所作などを女三宮にあれこれと授けます。

要は、毒気のないトゲのない、しかし大人の作法も智恵もない子供なんですよ。

だから、面会に至るまでは悲しみや苦しみで一杯だった紫の上も、いざ会ってみると、相手はまるっきり子供で、感情を動かされる対象ではないことに気づきます。

明石の姫君を既に育てた実績のある紫の上は、ある意味余裕さえ出来たかもしれません。

おぼこい女三宮に母親のように優しく話し、絵やお人形の話題に、女三宮もすっかり打ち解けていいムードになったのでした。

とは言え、ここまで大概心労をかけられたことが祟ったのか、紫の上は次第に体調を悪くしてゆきます。

柏木の執念と死

光源氏の従兄で親友でもある頭中将という人がいましたね。

この息子に柏木というのがいて、この男が女三宮にず〜っと恋い焦がれていました。

ところが、女三宮は光源氏と結ばれたため、落胆する息子を心配した頭中将が朱雀院にお願いし、女三宮の異母姉の女二宮(落葉の宮)を柏木の正室としました。

しかし頭中将の思惑通りにはいかず、柏木は女二宮を愛せず、どこまでも女三宮を心のなかで追い続けるのでした。

物語では、そのあたりの柏木の心情を、女三宮が飼っている猫の話を通して語っています。

結局どうなるのか?というと、光源氏がさんざんしてきたように、柏木も女三宮の寝所に侵入し男女関係を結んでしまうのです。何と言う因縁。

そして、光源氏が女三宮を正室にして9年が過ぎた時、ついに女三宮は柏木の子、薫を出産するのです。この時、光源氏48歳。

この薫が物語の後半、光源氏亡き後の宇治十帖の主役となります。

さて、この頃から柏木は病に伏し気味になります。

柏木は最高のリスクを犯したわけですからね。光源氏は自らの行いに重ねて「しょうがない」などと思うはずもなく、強烈な心理的プレッシャーをかけたのでしょう。

そして程なくして亡くなります。

源氏物語の中では、心因性のストレスが死因となったと思われる場面が何度もでてきます。当時は治療法もなく、結構大きな死因だったのでしょうね。

事実を知らない朱雀院と事実を知る光源氏

光源氏が密通を知ったのは、女三宮のもとに泊まった折り、柏木からの恋文を発見したからです。

当然のように光源氏は、女三宮に冷たくなります。

折しも、紫の上は心労が祟り体調を悪くしていたので、光源氏は一生懸命看病に励みます。そうすればするほど女三宮とは疎遠になる。

一方、事実を知らない朱雀院はひたすら泣く女三宮をとても心配します。

光源氏は、父親を悲しませないように女三宮を諭します。

遂に自らの強固な意思を持った女三宮は出家する

出産後、自分の子ではない薫を抱こうともせず、ひたすら冷たい光源氏。

柏木は亡くなるし、自分の体調もおかしくなり、遂に女三宮は出家を決意します。

これを光源氏に伝え許しを請うのですが、またもや認めません。

そこへ、出産を聞いた朱雀院が駆けつけたので、女三宮はなんとかしてほしいと頼みます。



朱雀院は、光源氏に娘が愛されてはいないことを理解し、出家に協力します。娘可愛さのあまりですね。

そういった後押しもあって出家ができたのですが、ここで大切なのは、今まで自我を一切持たなかった、或いは、面に出さなかったのに、頑として主張を曲げなかった女三宮の様変わりですね。

それ以後、光源氏の心が女三宮に接近することもあるのですが、もう心を許すことは二度とありませんでした。

またもや六条御息所現る

実は出家の後押しをしたのは前面の朱雀院に対して後面の六条御息所の死靈です。

そう、またもや出現したのですよ、六条御息所が。

この人の怨念、もとい、愛の深さも大概ですね。

光源氏の哀れ

女三宮の物語で光源氏が哀れなのは、女三宮が柏木に心を許したと勘違いをしたことです。

もし、ここをまっすぐに理解していれば、話はずいぶん変わっていたはずです。

ひょっとしたら、柏木は死に至るまで追い詰められなかったかもしれないし、女三宮にも、もう少し優しく接していたかもしれません。

曲がって誤解したばっかりに、自分は苦しくなるし、女三宮もより苦しくなるし、どうにもならなくなったのです。

更に言えば、光源氏の心が常に紫の上にあったとしても、正室に迎えた以上は女三宮に孤独感や疎外感で悲しい思いをさせるべきではありませんでした。

**

以上で記事の本編は終了です。

以下におまけとして、「六条院」について、そして、京にある気軽に源氏物語に触れられる場所の紹介についてのお話をします。

 

六条院について

記事中に何度も登場する「六条院」。

光源氏が最も輝いていて栄華を恣にしていた時の象徴的な建物、それが六条院です。

これがとんでもなくバカでかい敷地で63,000㎡もあったそうです。

このモデルとなったのは源融(みなもとのとおる)の邸宅、河原院ではないかと、平安時代に書かれた源氏物語の解説書「河海抄(かいいしょう)」にかかれています。

河原院があった場所と広さについてですが、京都市役所の記述によると「北は現在の五条通,南は正面通,西は柳馬場通,東は鴨川を範囲とする八町におよぶ広大な敷地をもち」とあり、これをそのままGoogleマップ上に表すと以下のようになります。

ありえないほど広大な邸宅です。

さて、光源氏は六条院に主だった夫人たちを住まわせ、もちろん光源氏自身も住んでいました。

六条院はほぼ四等分さて、北東側に夏の街、東南側に春の町、北西側に冬の町、南西側に秋の町をつくり、壁で区切られていましたが、廊下で繋がっていたと推測されます。

それぞれの町は優劣をつけるということはなく、各々独立した特色があり、どこも美しい建物と庭があったようです。

尚、秋の町に秋好中宮が割り当てられたのは、この場所が元々六条御息所の所有地であったからです。

この全景をジオラマ化したものが以下の写真です。

六条院全景

あまりに大きすぎてスケール感が湧きませんが、右側(東側)の門のところに牛車や人がいるので、それを見ると屋敷の広大さを実感できるかもしれません。

隠れた観光スポット「渉成園」

渉成園正面門

もう一度、河原院の推定場所を示した地図を見てください。

南西側に接している庭園があるでしょう?

ここは元から河原院の一部であったとのことで、今は、東本願寺別院の庭園です。

渉成園渡廊下

おそらく、そこまで認知はされておらず、京都観光の隠れスポットではないかと思います。

平日なら、それほど人もおらず、庭園もよく整備されてとても美しいので、一度は行く価値が十分にあると思います。絶好のデートスポットでもあります。

 

源氏物語に触れることができる京都のミュージアム

源氏物語ミュージアム

宇治市が運営している源氏物語についてのミュージアムで、場所は、JR宇治駅で下車し「うじばし」を渡ったらすぐです。京阪宇治駅下車ならより近く、徒歩500mくらいです。

光源氏ミュージアム

宇治十帖や当時の文化風俗などの解説が楽しいです。また、等身大の模型はインスタにはもってこいです。

もし行かれるなら、一時間に2回上映される動画は是非ご覧ください。

この記事に載せた六条院の大きなジオラマはここで展示されています。

また、近くには平等院もあり、街全体が観光地で綺麗でお店も多く歩いていて楽しい街です。

平等院

源氏物語ミュージアムのHPは宇治市HPの中にありますが、お世辞にも見やすいとは言えません。

概要を知るだけなら、商工会議所の「宇治市 源氏物語ミュージアム」というサイトのほうがよっぽど見やすいです。

日本茶カフェ|雲上茶寮

源氏物語ミュージアムの中に「雲上茶寮」というカフェがあるので、お時間があればお立ち寄りください。

雲上茶寮店内

私のおすすめは、「アフォガードと冷抹茶セット」。

アフォガードと冷抹茶セット

ここのアフォガードは、エスプレッソの変わりに超濃厚抹茶をかけますが、これがもうとてつもなく美味しいです。

冷抹茶もあまくて苦くて丸くて、飲むと心も体も整います。

風俗博物館

風俗博物館の場所は、西本願寺北東角の交差点を東側に渡るとすぐです。

JR京都駅からだと徒歩で1.1kmくらいなので15分くらいでしょうか。バスだと9番に乗って「西本願寺前」下車で徒歩3分です。

少し注意すべきは、井筒佐女牛ビルの5Fにあるのですが、このビルが可愛くて見過ごしやすいです。

風俗博物館入口

ここは、六条院の春の町の一部を再現し、その中に多くの人形を配置して、物語の一風景を再現しています。

六条院春の町寝殿

再現風景は固定的ではなく、その時々で幾つも用意されているようです。

一部とは、寝殿と東の対でこれだけでも相当大きな建物ですが、ジオラマがかなり精巧に作られており、ここで織りなす物語はとても見ごたえがあります。

竹取物語

その他、日本最古の物語「竹取物語」のジオラマや、平安時代女性の重ね着を実物大の人形で再現し解説をしています。

等身大の十二単

平安京創生館(京都市生涯学習総合センター)

京都市生涯学習総合センターの1Fに平安京創生館があります。

平安京創生館

ここの一番の見どころは平安時代の大きな4つのジオラマです。

  • 平安京の1/1000スケール復元模型
  • 宝勝寺復元模型
  • 鳥羽離宮復元模型
  • 豊楽殿復元模型

特に平安京復元模型は圧巻です。

平安京復元

ぱっと見、あまりの縮小率で詳細がよくわからないかもしれません。

しかし、実は物凄く作り込まれていて、これを知るためには双眼鏡などを持参してきたほうが良いでしょう。

まあ見事なものです。きっとびっくりしますよ。

また、一角では、当時の貴族の衣装を体験させてくれる無料サービスがあって、きちんと着せてくれて、記念写真が撮れますよ。

平安衣装試着コーナー

あと、私がこの記事にも使用した車争図屏風の実物大レプリカも展示されています。

ボランティアの人達がジオラマその他の詳しい説明をしてくれたり、着付けをしてくれたりします。

NHK「光る君へ」オープニングの平安京は

私はテレビを見ないので知らなかったのですが、ボランティアの方がここのジオラマだと教えて下さいました。

オープニングはNHKのYoutube動画で見ることが出来ます。ちょうど1分50秒くらいからです。

アクセスについては、あんまり良くありません。

JR京都駅からだと市バス206番で千本丸太町下車後、丸太町通を西に約360m歩きます。

詳しくは、こちらで確認をしてください。

二条城とセットで計画するのが良いかもしれません。

 

 

まとめ

この記事は、源氏物語を、かなり強い私の主観を通してご説明してまいりました。

愛や失望や葛藤、倫理的なジレンマ、権力の追求、人生の儚さなどを、光源氏が付き合った多くの女性との関係を通して見てきました。

また、その背景にある文化や風俗や美意識、そして平安時代の貴族社会の複雑さ、不条理さなどにも、かなり意識的に目を向けました。

尚、光源氏の子供世代の生活を描いた「宇治十帖」に関しては殆ど触れていません。それは、この記事が、光源氏と付き合った女性にフォーカスしたものだからです。

一方、現代では専門家や一部の興味ある人でなければわからない言葉については、その都度、適切な解説やリンクを張って理解の助けになるように努めました。

加えて、関連施設などの情報も数多く盛り込みました。

このような構成を持った記事を読まれて、以前より、より興味を持ったり役に立ったりしたなら、とても嬉しい限りです。

もし、より一層興味を持たれたなら、京都市内や宇治市内の関連ミュージアムにも是非お運びください。歩いて見て聞いて得た情報は、読書とは違った感動を与えてくれるでしょう。

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「源氏物語」は、1000年以上前に書かれた作品でありながら、その魅力は今なお色褪せることなく、多くの人々に愛され続けています。

今まで源氏物語にあまり馴染みがなかった方が、この記事を通じてその魅力の一端でも理解していただけたなら、この上ない喜びです。

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