【台湾旅行】今も台湾に残る日本統治時代の建物と心を紹介します

日本統治時代の建物

 

 

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台湾にはなぜ今尚日本統治時代の建物や心が残っているのか?

日本は日清戦争に勝利して台湾を50年間(1895年〜1945年)統治してきました。そして、その間に莫大な投資をしてソフト・ハード両面を劇的に充実させていきました。

日本統治時代の街並み

日本統治時代の街並み  参照:liondog.jugem.jp

やがて敗戦を機に日本は去り、入れ替わりに中国大陸で昨日まで日本と戦争をしていた蒋介石・国民党が台湾にやってきて統治を始めました。

台湾総統府」の項でも触れていますが、普通に考えれば敵国日本の構築してきたもの、残していったもの、浸透していたものはそれが何であれ、これから始める新しい統治にとって不都合にしかならず、日本流に出来上がっていた安定社会そのものの破壊が必要あると考えていたはずです。

だからこそ今の台湾には日本の面影はほとんど残っていません・・・とは実はなっていないのです。

日本統治時代の建物も文化もきらめく星のごとく台湾国中に残ってます。残されているどころか、壊れ風化したものをわざわざ修復して再び蘇らせた例も一つ二つではありません。どうしてなのでしょう?

今回は、今も尚台湾に残る日本統治時代の建物と文化をほんの少しだけ紹介します。とともに、その背景にある歴史などを合わせてお知らせすることで、疑問の答えに近づきたいと考えています。

 

 

 

 

八田與一が造った烏山頭ダム

建物・ビルではありませんが、一番最初に紹介したいのが烏山頭ダムであり、これを造った八田與一という人です。李登輝元台湾総統が、台湾に過去最大の功績を残した人は烏山頭ダムを造った八田與一だと言われてます。なぜ、八田という一ダム技師がそれほどまでに讃えられるのでしょうか?

烏山頭水庫

烏山頭水庫

日本が統治を始めた頃の台湾南部にある数少ない平野らしい平野「嘉南平野」は農作には不適でした。年間降水量が少なくて、降る雨も夏期に集中していて、おまけに治水が悪かったのです。水をコントロールできなければ収穫量は安定或いは増加しません。従って一帯は非常に貧しかったという話です。

放水口付近は工事中

放水口付近は工事中

八田はこの不毛の地を、当時最新のダム建設と灌漑システム構築と3年輪作耕法によって見事に大農業地帯に変えたのです。

普通ダムは1つの川の水をせき止めるものですが、八田はそれでは水量が足りないと考え、直径9mもの流水用トンネルを掘り別の川からも水を引いてきました。

烏山頭ダムは10年の歳月を経て巨額の費用を投じて1930年に完成しました。当時規模は東洋一で、このダムだけで15万haという膨大な農地を灌漑できました。その結果、米は従来の11倍、その他穀類は4倍も収穫ができるようになったといいます。

烏山頭ダム

烏山頭ダム

これほどの大事業をたった一人のダム技師が計画設計から予算獲得、工事進行、更には農法システムにまで考えを巡らし、これらを全部一人やってのけたのです。そしてこの成功の裏には、難工事に従事した作業員が彼を慕い続け頑張ったからこそという側面もあります。

ダムを見下ろす八田與一座像3

ダムを見下ろす八田與一座像3

ダムのほとりには烏山頭水庫公園があり八田與一の銅像があって、八田與一のお墓があって更には記念館さえあります。5月8日の命日には追悼式が行われ台湾総統までが参拝に訪れています。

八田與一命日法要

八田與一命日馬総統挨拶 参照:www.epochtimes.com

一技師に対してここまで敬意を表する事例が他にあるでしょうか。台湾人が如何に彼に対して感謝の念を抱いているか、言い換えれば、彼の行ったダム事業の偉大さが台湾人の行為を通して理解出来ると思います。

さて、その後の八田與一ですが、1942年5月灌漑調査のために乗ったフィリピンへ向かう船にアメリカ潜水艦の魚雷が命中し、海上に命を落としました。

八田與一宅3

妻 外代樹の像

そして妻の外代樹は同年9月にダム放水口に身を投げ後を追いました。黒い正装だったそうです。

八田與一に関しては日本の虫プロダクションがアニメ化していますね。

こちらにも関連記事があるので、併せてお読みください。
→映画KANOの嘉義と烏山頭ダム観光 そして 故宮博物院南部院

 

 

 

 

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台湾総統府

日清戦争に勝利した日本は、1895年下関条約によって台湾の割譲を受け統治する事になりました。そして行政官庁として早速造ったのが台湾総督府(今の台湾総統府)です。

日本統治時代の台湾総督府

日本統治時代の台湾総督府

1945年連合国軍の大空襲を受け倒壊や火災により、ほぼ全面的に使用不可能となりました。ただ興味深い事に、総督府には致命的な爆撃を加えなかったという説があります。

空襲を受けた総統府

空襲を受けた総統府

理由は2つで、一つはアメリカが建物の価値を考慮した事で、もう一つは程なく日本に取って代わる事を予想した蒋介石が再利用を考えていた事です。

特に2つ目の説については長い間私の理解を超えていました。というのは国民党蒋介石は中国本土で日本と激しく戦ってきたわけで、戦後の台湾においては日本色を払拭すべく日本の造った多くの建物を破壊し、日本教育を受けた台湾人知識人の多くを虐殺しています。

なのに、そんな敵国日本の造ったシンボル的建物を自分自身が何故使うのでしょうか? そういえば保養地として蒋介石が愛した日月譚の別荘も、日本統治時代に造られ、皇族の宿泊にも使われた「涵碧楼」という建物です。

今でも変だなとは思いますが、蒋介石は感情とは関係のない実利、損か得かの判断で決断し行動していたのだ、と一応理解しています。

台湾総統府正面

台湾総統府正面

ともあれ台湾総督府は1947年から修復工事が始まり、翌年には「台湾総統府」として機能するに至り、以後何回か修復を繰り返すも、ほぼ原型通りの姿で現在に至っています。

台湾総統府内部

台湾総統府内部

1998年には国宝級古跡に指定されて、一般公開も開始されました。国家元首が現在も執務を行っている建物を部分的とはいえ公開するのは世界的にも珍しい事ではないでしょうか。警備が大変だろうなあ、といらぬ心配をしてしまいます。

一階正面

一階正面

以前は、平日の午前中は誰でも入って見学する事が出来たのですが、2014年から事前予約制となりました(中国人観光客が急増したため)。

このルール変更直後に予約なしで知らずに行ったら当然入館拒否されました。警備は厳重で自動小銃をもった兵士もいるなか、相当粘りましたが当然全くダメでした(;´∀`) 尚、3ヶ月に1回一般公開の日がありこの日は予約不要です

見学受付開始直前

見学受付開始直前

建物はルネサンス様式で内部に使用されている木材は全てヒノキだそうです。中央の塔は11階両サイトが5階建てで、真上から見ると「日本」の「日」の字になっています。

正面に立つと思わず「かっこいい」と言いたくなるほど華麗で荘厳で細かいところに至るまで完璧です。写真で見るのとでは迫力が全く違います。内部はさらに美しく、歴史や文化などを紹介するコーナーやショップコーナーもあり、さながら博物館のようでもあります。また日本語で解説をしてくれるボランティアの方もおられます。

なおこの一帯には国立台湾博物館228記念館などの歴史的に貴重な建物が多くあり、台北の観光スポットとなっています。

国立台湾博物館その他博物館と美術館の紹介です

台北の博物館や美術館を巡り公園を散策すれば新たな感動が!

2017.01.12

 

 

 

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北投温泉

1894年ドイツ人によって発見された温泉で湯治場として有名になり、日本統治時代になって温泉保養地として発展しました。

現在も台北の中心から1時間かからずに行ける温泉地として、台北市南近隣の烏来温泉より尚アクセスがよくて非常に人気があります。週末は日帰りで入浴+食事というのが台北の人の楽しみになっています。

また北投温泉には、国内で長年高い評価を得ている温泉旅館の加賀屋が2010年にオープンしており、値段は高いですが泊まってみる価値はあります。

 

北投温泉博物館

日本統治時代の1913年に公共浴場として建てられましたが、終戦後次第に荒廃し忘れ去られてゆきました。再び光を浴びるきっかけとなったのは1994年、地元北投の小学生と先生の郷土学習活動がきっかけです

北投温泉博物館全景

北投温泉博物館全景

その後地元の方の熱心な活動からついに台湾市政府が1998年に修復保存を決定し、ボロボロになっていた建物を過去の写真や証言をもとに復活させたのでした。三級古跡に指定されています。

北投温泉博物館玄関

北投温泉博物館玄関

博物館として蘇った現在は、温泉に関する資料や写真が展示されており、日本統治時代の風景を撮った動画もみる事が出来て、また浴槽などの内部施設も再現されており、当時の様子をさまざまに感じることができます。

大浴場に雲と雷神が・・?

大浴場に雲と雷神が・・?

2階には主に入浴後の休憩に使われていた48畳の大広間が再現されていますが、大の字になって寝そべって天井を見ていると歴史が頭の中で流れてゆきます。市政府を動かしてまで日本統治時代の建物を再建しようとした地元の人たちの思いとは何だったのでしょうか?

北投温泉博物館二階大広間

北投温泉博物館二階大広間

1階には大浴場と女性用の可愛い浴場が再現されています。もちろんお湯は入っていませんし入浴もできません。庭も大変綺麗で新婚さんの撮影風景が見られたりします。

北投温泉博物館ジオラマ

北投温泉博物館ジオラマ

 

北投文物館

北投文物館入り口

北投文物館入り口

北投温泉街の一番奥に位置する北投文物館はもともと温泉旅館として1920年に建設されました。北投温泉地区とはいえ北投温泉博物館がある中心部とはかなり周囲の雰囲気が異なり、より自然色の強い立地条件です。

北投文物館玄関

北投文物館玄関

敷地に一歩踏み入れた瞬間から日本情緒に溢れた景観に心を奪われるとともに、ここが日本でないという事実に感動を覚えます。

北投文物館大広間

北投文物館大広間

北投文物館も北投温泉博物館と同時期に台北市政府によって修復保存が決定されています。しかし、こちらはほぼ一からの立て直しであったとの事。実に5年の歳月をかけて完成をみています。同じく三級古跡に指定されています。

北投文物館民族衣装展示

北投文物館民族衣装展示

日本統治時代の旅館の様子説明や内部再現もさることながら、文化館の名の通り台湾民族・台湾原住民さらには日本民族文化財・民俗が豊富に展示されているところに大きな特徴があります。

北投文物館生け花

北投文物館生け花

もう一つ大きな特徴として、日本の裏千家の茶道教室が営まれており、月に一度日本から裏千家の先生が来て茶会が開かれているそうです。

北投文物館お土産ショップ

北投文物館お土産ショップ

原住民とは

台湾には大昔から原住民がいて現在政府に公認されている数が16部族である。九州ほどの大きさしかない台湾にこれほど多くの部族がいて、日本統治以前はそれぞれ言語が違い、交流もなく、一部では他部族の首刈りが行われていた。

 

 

 

 

 

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宮原眼科

台湾鉄道の台中駅周辺にある建物の紹介です。日本統治時代の1927年に眼科医の宮原武熊が開業するために造った赤レンガ2階建ての建物です

元の宮原眼科

元の宮原眼科 参照:sharonwhite.pixnet.net

戦後宮原医師は日本に引き上げ後しばらくは再利用されていたのですが、やがて放置され何十年も忘れ去られていました。

そして1999年に台湾で起こった20世紀最大の台湾中部大地震などにより、さらに崩壊が進み遂に取り壊されることが決定しました。

宮原眼科全景

宮原眼科全景 参照:mypaper.pchome.com.tw

ここで「土鳳梨」というパイナップルケーキで有名な日出グループが手を上げて再建したんですね。建物は上部以外はほぼ残したのですが、びっくりするのは完成後新たに展開するスイーツ店の店名も「宮原眼科」としたことです。いったいどんな勝算があったのでしょうか。

宮原眼科冰淇凌

参照:www.imvr.net

一口に、台湾に残る日本統治時代の建物といっても、残り方は色々です。国や地方政府が関与してそれなりの残り方をする場合もあるし、民間が事業の一環として再建し、この宮原眼科のようにお店として再出発する事例も多くあります。

宮原眼科内部

宮原眼科内部 参照:news.housefun.com.tw

写真の通り内装が半端じゃない豪華さでコンセプトがまた凄くて、どう表現すればいいんでしょう。どう見たってスイーツ屋さんじゃないですよね。このこだわりで成功するんだから大したものです。

宮原眼科入り口

宮原眼科入り口 参照:lohas.pixnet.net

実際に行って食べれば非常に納得できますが、宮原眼科という名に対してだけじゃなく、商品に対するこだわりが半端じゃないんですね。美味しさを追求するけれど、変な原材料や添加物は一切使わないと書かれています。

宮原眼科冰淇淋

宮原眼科冰淇淋

ヘルシー・スイーツを求める女性に大人気です。
今回は建物の紹介なのでここまでにしておきますが、新名所となった「宮原眼科」に是非足を運んでみてください。

 

 

 

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吉安慶修院

日本統治時代には日本から台湾東部に沢山の移民が来て生活していました。こういった人たちは例外なく自然災害や熱帯地方の病気と闘い、原住民の人達とのトラブルに怯え、大変な苦労をされていました。

花蓮吉野村

花蓮吉野村 参照:blog.xuite.net

ここに紹介する花蓮慶修院は元「吉野布教所」と呼ばれ、高野山弘法大師を本尊とするお寺でした。名前の由来は徳島県吉野川周辺からの移民が多かったからで、当時は一帯を吉野村といったそうです。今の地名は吉安村に変わっています。

吉野移民村

吉野移民村

異国の地で慣れない厳しい生活を強いられる日本人にとっては、心を一つにできる場所、心の拠り所になるお寺が必要だったのでしょうか。

戦後、日本人は引き上げ本尊も持ち帰られました。台湾は観音信仰の厚い国なので、あらたに観音菩薩を本尊として寺の名も慶修院と変えられました。ところが1983年に火災にあいます。

光明真言百万遍

光明真言百万遍

時が進み、1997年三級古跡に指定され、それがきっかけで再建がスタート。2003年遂に完成を見ました。特筆すべきは、なんと58年ぶりに弘法大師像が日本から戻り安置されたのです。

慶修院

慶修院

慶修院年中行事

慶修院年中行事

さて実際に門前に立つと、写真の通り、いきなり桐の紋と巴の紋が目に飛び込んできます。かなりびっくりしました。台湾には多くのお寺がありますが、ここはそれらとは全く違って完全に日本のお寺です。まさか、それを台湾でみるとは。

慶修院四国88カ所の全仏像と絵馬

慶修院四国88カ所の全仏像と絵馬

こちらには四国88カ所の全仏像がならんでいて壮観です。ここにお参りをすることで四国をお遍路するのと同じご利益があるんだそうです。

慶修院売店

慶修院売店

今年(2015年)7月に行ったのですが、夏休みの最中ということもあり賑わっていました。ほぼ全員台湾の方でしたが、この日本式寺院に何を感じていたのでしょうか。

 

 

 

 

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おまけ(鎮安堂飛虎将軍廟)

おまけとして紹介しますのは、日本統治時代の建物ではなく、戦後台湾人が造ったある廟です。実は、その廟にはある日本人が祀られています。

なぜ台湾人は日本人を祀るために廟を建てたのでしょうか。いったい誰が祀られているのでしょうか。

鎮安堂飛虎将軍廟本尊

鎮安堂飛虎将軍廟本尊 参照:kagaribi-gifu.cocolog-nifty.com

この廟は正式名称を鎮安堂飛虎将軍廟といい、祀られているのは零戦パイロットの杉浦茂峰少尉です。しかも毎朝毎夕に「君が代」と「海ゆかば」を流し、少尉が好きであったタバコに火をつけて供えるというのです。

杉浦少尉

杉浦茂峰少尉紹介 参照:blogs.yahoo.co.jp

経緯はこうです。

終戦間際の1944年、連合軍の襲来を受け、迎え撃つために飛び立った杉浦少尉はもはや多勢に無勢で被弾しました。墜落途中、このまま脱出したのでは零戦が村に落ちて大きな被害が出ると判断し、落ちゆく零戦を辛うじてコントロールしそして脱出。しかし落下途中で機銃で撃たれ戦死しました。

飛虎将軍廟漫画

参照:ainan.hamuya.net

その後多くの村民が「夢枕に出てきた」と話したそうです。そうして村を守った英雄として祠に祀られ、やがて廟を造る流れになるのです。地元では小学校の先生が物語を漫画にして子供達にも教えているそうです。廟に行くともらえます。

日本に生まれ育ち教えられ、そうして大きくなって日々日本で暮らしていると、心は自由に考える事ができると思っていても、どこかにこびりついた固定観念のようなものがあるのかもしれません。

とにかく最初は物凄く違和感を覚えたんですね。ありえない話だって。どうして「日本さえ来てなかったら」などという発想にならないのだろう?って。

鎮安堂飛虎将軍廟正面

鎮安堂飛虎将軍廟正面 参照:taiwan-blog.com

さて、
廟自体は決して大きくはなくコンパクトです。行くと管理人さんが笑顔で迎えてくれて記帳を勧められます。

お伺いした時には、一つ一つのお話を聞く都度胸がどんどん一杯になってしまって、涙をこぼさないように堪えた思い出があります。

この廟は今も町を守っており運気あるパワースポットなんだそうです。

飛虎将軍日本に里帰り

飛虎将軍日本に里帰り

 

 

 

 

 

最後に

日本統治時代に出来た建物と一口に言っても出来た理由は当然ですがさまざまです。その一つ一つに歴史があり地元の人たちとの関わりがあります。また、最後の紹介のように、日本統治が原因して台湾人がのちに建てた建物もあります。

今回の紹介はごくごく一部で、台湾にはまだまだ日本統治時代の建物が沢山あります。今回は切り口として使いませんでしたが、神社の鳥居なんかもあちこちに残されていて、そこにもやはり歴史があります。

日本が台湾を統治した50年。台湾が日本に統治された50年。その証として今も台湾に息づく建物たち。

もし台湾に行ったことがなくて、今回少しでも興味を持たれたら、ぜひ訪台されることをお勧めします。楽しく美味しく懐かしく、そしてきっと少し何かが見えてくるはずです。

✈️  Time for Taiwan !!

 

 

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